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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
沈黙が静寂へ導く、沈黙が決め手となる
私が怒っているのか?
それとも怒りが起こり、さらに自分が怒っていると自覚する「私」が後から起こっているのか
怒っている知覚・自覚している私とは「怒り」の後から発生しているのではないか

私が怒りを静めようとしているのか?
それとも怒りも、その怒りを鎮めようとしている私も共に起こっているのではないか

私が衝動しているのか?
それともその衝動が起こっており、その衝動を自分が起こしたと云う知覚が共に
起こって
その衝動を抑えよう又は飲み込まれまいとしている私が起こっているのか

私が苦しんでいるのか?
それともその苦しみの直後にその苦しんでいる知覚、即ちその苦しみを知覚する私が遅れて起こっているのか

私が考えているのか?
それともその考えがやってきて、脳に受信され起こっており、その「考えを考えている私」が同時に起こっているのか。思考も思考する人も、感情も感情している人も共に少し遅れて起こっているものなのか。私がそれらを知覚している自分なのではなくてその知覚する自分はそれら思考が生み出したのだ

私の人生であるのか?私が生きているのか?
それともこの人生が起こって、人生を生きている私が後から起こっているのか

私が眠ったのか?
いや眠りも目覚めもそれは起こっているのだ。
何が目覚め、そして何が眠ったのか?
それは思考が(マインドが)目覚め、そして思考(私)が眠ったのである。
思考が起こり、そして思考が熟睡という沈黙に消息していく、だが生命は持続している
生命から思考もマインドも熟睡という沈黙から生まれている。
しかし生命は思考マインドではない、私ではない、沈黙である。
マインドとは私という観念であり
その私が自らの意志で能動的に眠ったのではなくて、受動的に眠りが起こったのだ、従って私とはマインドのことであるから、私が眠りに落ちたのだ、思考が眠りに終熄されたのだ。
朝には私が眠りから目覚めたのではなくて、眠りから目覚めることが起こったので
私は朝、目が覚めたという「私・思考」が起こったのだ。
目が覚めた私とはその「分離し、自他を分割する目」であり、思考である。
朝、目覚めと同時に発生したときに同時に起こっているものである、それが私だ。
熟睡という沈黙から思考が起こることを「朝、目が覚めた」といい、思考が熟睡に戻ることを夜眠るというのだ。沈黙から思考が生起している。沈黙から生じそして終熄するものそれが私だ。私は沈黙から生じ滅する現象である。


私が雑念を起こしているのか?
それとも単に雑念が起こっているのであり、その雑念が「雑念を観察している私」のことを、即ち「雑念を知覚している私」というものを生み出しているのではないか
汚れを見ているのは汚れなのである。
知覚するものは知覚されるものである。
雑念を観察している者とは雑念なのではないか
「雑念を観察している私」「“私が雑念を観察している”という雑念」が雑念から起こっているのだ
雑念を知覚し、観察しているのは雑念であり、雑念を退けようとしているものこそが
雑念である。その雑念は静寂な純粋空間(真の私)に起こっているのだ
「雑念と雑念を観察している者」が同時に起こっているのである。
何故起こることが可能であるのか?それは空間があるからだ
その空間こそ雑念ではないものである。思考が無い静寂が鏡の空間であると言えようか、それは熟睡に似ているが意識がある熟睡なのである。しかしそこには思考が無いのである
観照の目には雑念は存在していない。雑念がないから沈黙であり静寂だ
静寂は静寂だけを見ているからである
愛は愛だけを見ている。

観察者は観察される者であり
見る者は見られるものであり
見られるものがないとき見る者はない
見られるものが起こらないとき
見るものはない
即ち雑念はない

自他の中に自我を見ているのは自我であり
自他の中に真の私を見ているものが真の私である

他者を他者と知覚しているのは自我であり
他者の中に真の私を見、自己の中にも真の私を見ているのが真の私だ
真の私にとっては自己も他己も同じ神のマーヤであるからだ

行為は神が為しているのに、人格や自我は自分が為しているという
それは人格や自我とは神のマーヤだからだ

肉体を見ているのは肉体の目であり
心霊を見ているのは霊眼であり
静寂と観照ですべてに神を見ているのはすべてである神の目である
現象の中に実相を見ているものが真の私である
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【2012/10/21 08:37】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0)
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まとめ【沈黙が静寂へ導く、沈】
私が怒っているのか?それとも怒りが起こり、さらに自分が怒っていると自覚する「私」が後から起こってい まっとめBLOG速報【2012/10/27 10:24】
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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