肯定的接近とは私達のみちではない
それは至る道、なる道であり、頂上を目指している それはマインドの領域にあり、心の領域にある その至ること、なること、道、方法は心の領域であり 心は神が使っておられる 至るのは神であり、至らないのも神であり なるのは神がなるのであり、ならないのも神である 頂上も神であり、出発点の谷もまた神そのものである では否定的接近とは この肉体は私ではない、肉体は神の宮であり、神のものである このエーテル複体は私ではない、エーテル複体は神の宮であり、神のものである この諸体・チャクラ・クンダリーニは私ではない、それらは神のものであり神が使用している この私・自我は私ではない、自我は神が使用しておられ、神のものである この魂は私ではない、魂は神の一部分であり、神のものである この行為は私の行為ではない、行為は神が為しておられるから この記憶は私のものではない、記憶は神のものであり、神が記憶を使用しておられる この感覚は私のものではない、感覚は神のものであり、神が感覚を使用しておられる この欲望は私のものではない、欲望は神が使用しておられるからである この思考は私のものではない、この思考は神が使用しておられるからである この私と言う観念は私のものではない、私と言う観念は神が使用しておられるからである 神のみが主体であり、神が私と言う観念を使って私を現出させ、演じておられるのであって 私は神の道具であり、神が生きておられるのである 以上を知識や思い込みや観念ではなくて 理解することが否定的接近の道である そして肯定的接近と否定的接近の最大の違いは 否定的接近に於いては 善と悪を措定したりせず、善悪を判断したり、評価したりせず 措定し、判断し、評価している私を唯見ることである その評価し判断し逃避している私を見ている私を見ることである そのときその観察者たは観察されるものであることだろう それが 自我と共にいることである、自我を抱きしめることである そのときこの自我という私が、自らを語り始めることであろう といわれている。 神しかいないからである。 スポンサーサイト
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肯定的接近とは私達のみちではないそれは至る道、なる道であり、頂上を目指しているそれはマインドの領域 まっとめBLOG速報【2012/10/27 10:24】
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