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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
シャンカラの教え
シャンカラは次のように云っているように思える


行為とは無知が起こしているものであると

その無知とは根源の恐怖自体であり

この無知(根本無明)が私という観念として
統覚機能(個別的霊魂)を通じて行為を起こしている・・・・と


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【2015/06/29 07:07】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
真実と思われること
誰も
何も
していない
【2015/06/05 06:11】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自己実現は嘘である、自己は実現しない、至ることはない
近頃思うこと

真我を実現するのはこの私・吾ではない
この私・自我が未知なる真我を獲るために死ぬことは
決して死ぬことではない。そこにまだこの自我がいるからである。
それは自己関心という自我の常套手段であるからだ。

この吾・私自我が内部と外部の起こっていることの全てを完全に受容し
自分自身が「自分自身」を、そして起こっている結果である内部と外部を完全にあるがままに受容したとき

もはやあるがままを改善し良くしようとしないとき
どこにも至ろうとしなくなるとき
あるがままが、あるがままであるとき
為すことは何もなく
何も為しておらず
決して至ることもなく、どこにも行き着かないことを知ったとき
為しているというこの錯覚と実感が落ちたとき
この自我が結果であること
私とは起こっている結果であること
意識とは起こっていることであることを明確に実感し
そのことを、その意識自身である自我が悟ったとき


そこに
終焉の機会が訪れると言われている

行為や意識や私から、それ自身が離れるからである
行為や私や意識はそれでも起こり続けることであろうが
けれども、それら意識や行為や私は薄く小さくなっていくことだろう

この私が悟るのではなく
この私が実現するのでもない
この私は起こっていることの結果であり
全ての地球の人や生物無生物、森羅万象と同じく、起こっている現象であることを
この起こっている現象である私が自らを悟るとき・・・実感するとき


この私が消滅する機会が訪れる


そして

完全に自己が消滅し、何も存在しなくなったそこに
即ち絶対の空と、静寂のなかに元々始めからあったといわれる
本来の私が存在していることであろう

それはこの私ではない、この意識ではない
磔と十字架というプロセスを経て、死が起こったのである

そのプロセスは
なることや至ることや実現することや向かうことではない


何もしなくなることではなく、何もしていないことを悟ることである
私や、意識や行為や出来事は起こり続けるであろう
しかし
何かを為している実感が消滅していくことなのである


決して悟りが起こるのではない
私という虚偽が終焉し、消滅したとき
始めから在った意識が
顕わになるのであり


私が自己実現するのではない
私が悟るのではない
そこには吾、自己、私はいない。
【2015/06/01 06:35】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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