FC2ブログ
気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
友人からの指摘
先日、友人から指摘を受けた
久保さん、「貴方は異常だよ、いつも同じ事ばかりループして」と
・・・確かに、異常かもしれない
しかし
私の興味がパチンコや競馬や、料理や、政治ではなくて
思考者と行為者に興味があると云うことなのだ
思考しているのは誰か
行為している者は誰かと言うこと



故に私はいつもそのことを思っている訳だ
この私・個人とは私・個人のものなのであろうか?
私が行為しているのであろうか?
私が思考しているのであろうか?
そもそも私のもの、私、私と言っているのは誰なのか?
自分が努力して悟ったり、達成したり、実現したりするのか?



それとも
個人も、努力も、悟りも、達成も、実現も起こっていることなのではないか?
肉体や、五感や、知覚や、認識や、そして私自身すらもが起こっているように、
それらは投影されているように、起こっているのではないか


自我も、自我を見て非難し判断している自我も
聖賢の言われるように
起こっている現象なのではないか



外部が起こっているように
内部も起こっているのではないか



出来事は起こっているように
努力や才能や、努力しないことも、才能がないことも起こっているように
成功や失敗も起こっているのではないか
内部の思考や感情や五感や知覚が起こっているように
私自身も、この自我を観察する思考(自我)も起こっているのではないか



友人が指摘することは的を外れていると思われる
誰もが何もしていない
勿論、私は何もしていない
何かを考えるその考えも、其れを考えている私や貴方も起きている現象である
何かを考えている、何かを為していると実感する私も起こっている
何かを為していると思っている私も、何もしていないと思っている私も起こっており
何もすることもなく、何もしないこともない


何も引くこともなく、何も足すこともない


個人、私、個別的霊魂には何もすることはなく
何もしていないのではないか

何故なら
個人、私、個別的霊魂も現象の全体の一部として
起こっているからなのではないか


・・・と、私はこの事を考えるのが好きなので思索している
スポンサーサイト



【2014/05/28 07:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
言葉は異なっていても同じ内容だ
聖賢の言われるように


行為は起こっている
私は行為しておらず
誰も何も行為してなく
ただ行為は起きている


そして
その行為していると実感し
そう思っている私自己
そう思っている貴方も
ただ起きている


・・・と
そのように観照している内奥の私に
標準を合わせて


こちら側である
自己と他己
この行為し、思考していると実感している自己と他己が
思考なく見ようとすることによって
沈黙することが(観照することが)
深化の道程なのであろうか


思考する私も
その思考も
行為と同じく
ただ起こっている・・・と観照することは
起こっている思考と行為を
あるがままに思考なく、
行為に巻き込まれずに行為を
思考に巻き込まれることなく思考を


見ていることと同じだ


私が考えているのではない
この考えも
考えている私も
ともに
起こっている事柄なのだと


私が見ているのではない
見ていることが起こっており
そして
見ている私も起こっているのだと


アドヴァイタの聖賢は表現こそ
異なっていても
同じ事柄を指している


行為者もなく
思考者もなく
ただ行為と思考が起こっている
そして行為者も思考者も起こっている・・・と




【2014/05/23 06:31】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
何もしていない
聖賢は言われる

わたしは何もしていない
わたしはどこにも行かない



私も貴方も誰も何もしていない
私も貴方も誰もどこにも行かない



何かをしている
どこかに行こう
として
其れを実感している私とは誰か


その
何かを為して
どこかに行こうとしている私とは誰か


その私とは熟睡から起こっている私であり
熟睡とは私を生み出す心が休んでいる状態だと言われる

それらの私とは
心に他ならないと

その様にいわれている

【2014/05/14 08:08】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
分離を正見している目とは分離のない目である
「見るものは見られるものである」との見は
見る者である主体と見られるものである対象が分離しているところの
心の見ではない、脳の意識ではない。
主体と客体の分離のない目であり
其れは勿論の脳の結果の意識ではなくて
脳をあらしめている意識、マインドをあらしめている次元
即ち自他の分離のない次元の目であり、次元の基底の意識だ
見る者と見られるものという分離を起こしている分離そのものを
また時間と空間と次元そのものを正見している目であり
マーヤを正見している目
そこには分離、分割、区別のない目のこと
次元の区別を超越し、次元をあらしめている根源の目

全てに自身である神を見ている目であることだろう


同じく
「行為者はいない行為が起こっているだけだ」の見も
私達である私という観念の目ではない。
それは自分が行為していると実感し、他者が行為していると実感している
心の見の次元を超えている
それは脳の見ではなくて、脳をあらしめている根源の見であり
その見に於いては行為はないのかもしれない。
自他に於いて行為を見ていることとは、即ち私達の目とはマインドの目であり
それは行為をおこしている根源の目ではない。


「思考者はいない思考が有るだけだ」の見も
自分が思考していると錯覚する「私という観念」「根本無明」を正見している見であり



そこには
行為もなく、思考もなく。行為している実感する私という観念もなく
自分が思考していると実感している思考もない次元であることだろう
統覚機能を正見している目であることだろう。


【2014/05/07 06:58】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する