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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
意識とは自らを識るこころ
意識それ自体が意を識る(知る)のであり
意(こころ)はみずからを識る・・である 
意識が起こることで、それを知る主体即ち私という自己感覚が生じている



実際には
意識は生み出され起こっているにも拘わらず
起こっているその意識が
意識を起こしている私という
嘘の主体を生み出し
私が意識しているという主客逆転を生み出し
自分が意識しているという「意識する自己」という
嘘の自体感覚を生み出している



そして、それが記憶として
更に働き続けている。


意識の主体は本当は存在していない
この自己感覚は
意識によって生み出し続けられているだけだ



意識が脳に起こっているだけなのに

その意識が
私が意識しているという
仮想の主体を生み出し
その仮想の主体が記憶と成り
自己を形成しているのではないだろうか



この私という実体感覚は
脳によって生じている意識によって
生み出し続けられている虚構なのではないか











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【2013/11/22 07:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
グルジェフ風に表現すれば
生きるためには生まれていなければならない



生まれるためには死ななければならない



死ぬためには見なければならない



見るためには恩寵が起こらねばならない



見るという恩寵・理解が起こるためには



見れない、又は見ていないことに気がつかねばならない



見ていないことに気がつくためには




心なく、思考なく、私なく、ただただ静かに見ようとしなければならない



静かに沈黙の内に見ようとするためには、見ることの重要性を納得しなければならない




見ることの重要性を納得するためには自己探求を始めなければならない



自己探求を始めるには自我が成熟していなければならない






(この脳の条件付けの解除は
まずはじめに、自己の探求から
始まると言うことであろうか。
かくいう私は脳の条件付け
そのものである)











【2013/11/13 17:21】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
階層性マトリックス
意識は階層性マトリックス(それぞれの次元の脳)に属している
意識が階層性マトリックスを構成している
それぞれの意識はそれぞれの次元のマトリックスのものだ
いな、おそらく意識こそマトリックスそのものなのだろう
ここで重要なのは
知覚や意識こそマトリックそのものであるということ
私が思考しているのではなくて、マトリックスからの思考が単体の脳に起こっているのである
自分の意識などというものは全く存在していないのだ、
私そのものがマトリックスそのものなのだから



①覚醒時の意識、即ちこの物質の次元のマトリックス・自己意識
②夢見時の意識、即ち死後の物質の次元のマトリックス・自己意識
③熟睡時の意識、即ちマトリックスの本質の物質の次元・非自己意識
④熟睡を観照・正見している意識、即ちマトリックスを生み出している次元、意識を生み出している意識


これらの
四つの次元がこの肉体に
浸透し交錯し、その各マトリックスを維持していると思われる

この私とは
それぞれの次元の
それぞれのマトリックス(脳)が生み出している結果である
と思われる



【2013/11/10 07:57】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私は私のものか
私は私のものではない
この私もそれを見ている私も起こっていることがらだ


意識は起こっているからだ


私という自己意識も、それを知覚する私も
また「他人の目」を気にして「自分がどう思われているか」という
自分の利益のことだけを考え
他人に関心のない自己関心という自我意識も
いろいろと思考する私も、その思考の中身も
起こっている意識ではないか

意識そのものが起こっているのであり
意識とはスクリーンに映し出されているものである


意識は起こりそして去る
私も起こりそして去る


それらはそれらが映し出されている未知なるスクリーンではない

意識は起こりそして去る。だが未知なるスクリーンはそこに在る。
未知なるスクリーンは意識ではなく、意識を観照し凝視している。



【2013/11/09 07:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
脳と思考
脳とは勿論個人のものではない
脳は私が作ったものではないからだ
「私の脳」だとの、誤って倒錯している思考も脳が生み出したものだ
思考そのものを(思考という物質を)私は生み出せないからだ
(事実は逆に思考が脳に起こり、私が思考しているという錯覚を生み出しているのだ)
その思考も脳が生み出しているものだからだ
私が考えているように見えていても
実際には脳に思考が起こっているだけなのだ


薬物によって思考は変わるように
思考は物質であり
物質によって思考は変わるのである

だが思考ではない
思考では捉えられない
「見るものは見られるものである」との観照者の意識は
薬物や意識的行為ではもたらせない
脳の結果である意志や行為によっては
脳の条件付けは解除されない
行為や意志こそ条件付けられている脳の結果であるからだ




脳そのものを生み出し脳を機能させ
そして意志や行為をそしてマーヤをもたらしている
根源の純粋意識によって(観照者の根源)によって
のみその脳の条件付けは解除されることだろう
決して薬物や霊妙な物質、意志的行為によっては
それはもたらせない





さて
思考は脳によって生じている
脳から思考は生じているのだ
従って
私から思考が生まれているのではなくて
脳から、この意識は生じて私は生まれているのだ
この個人、私・自己意識とは万人共通の脳が生み出しているのだ
この分離している私意識とは脳が生み出している思考なのだ
(けれどもこの記憶である思考という少し精妙な物質は肉体の死後
も継続している。現在の人類の五感が粗いのでこの物質が把握できないだけだ)



この思考は(この個別的な私・意識は)
私から生じているのではなく脳から生じている


そして脳から生じた記憶(私という自己意識)から
さらに記憶の反応が起こっている


脳からの思考と、その思考の記憶からの反応である


私という記憶であるものの「この実感」とは全人類同一規格の脳が生み出したものだ
私という実感は万人が全くおなじく同じように感じている。それ
は人類共通規格、同一構造の脳がもたらしたものだからだ
だからいままでのすべての人類は同一規格の脳によって
同じように時空間の認識形式に縛られ、同じように思考が機能している
人類が同じなのは、思考だけではなく、味覚も、衝動も、嗅覚も、知
覚も、時間認識も、自分は他人とは異なっているという錯覚も、記
憶システムの反応もすべて同じように知覚され認識されている
のは脳の構造が全く同一規格であるからだ


この不安、この恐怖、この嫉妬心、この増上慢、この絶望は誰のも
のであろうか、誰が感じているのであろうか?
それは勿論脳を通じて起こっている思考であり、思考が感じているのだ。


私は個人であってあなたとは異なっている・・・と
同じように同一の脳から生じた思考がそう思っている

脳の条件づけの結果が
この思考であり
その思考が私という記憶なのである


もし脳の条件付けが一部解除されていたら
異なる状態の思考であることだろう
しかしそのハイとダウンの思考状態すら
物質の意識状態であり

観察者と観察されるものの分離がない
観照者の意識ではないと思われる

・・・と、その様に思索している


【2013/11/02 23:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私は誰か
私は誰か?
ラマナ・マハリシの奨めるこの質問の答えは


「私を見ること」 に尽きる。



なぜなら私とは言葉や概念では補足できないからである。



「私は誰か」といくら思考しても、それは私を知ることにはならない
思考では私は知られないからである
私を思考や観念上の概念で持ってこうだああだと規定しても観念遊戯に終始してしまい
実際には思考上、知識の羅列、情報の範囲、信仰の領域、哲学の観念世界に過ぎず
自分に対して影響をあたえることはないし
私を知ることはない
知識では私は知られないからである
「私は誰か?」とは知的探求では決して近づけないし、知られることはない



私自己をいくら概念や観念で自我と真我に、さらには
低次の自己、中位の自己、高位の自己
自我と諸体と個別的霊魂と観照者に細分化しても
それは自己を知ることに繋がっていかない
知識や信仰では自己を知ることは出来ないからだ


自己を知ることは
自己を見ること

自己を見ることとは
思考なく、心なく、判断なく、非難無く、分離なく
自己を見ることであり
その心を心なく見ることのなかに
自ずと自証されていく





それは又自分自身・自我(エゴ)・自己である思考と心とを
見る者と見られるものに分割することなく分離なく観照することでもある




観察している私も
観察されている私も同一の私であり




それは起こっていることがらである

とその様に思われる



もしこの自己を見ることの中に
心がある場合には自己を見ることは出来ない


この自己を見るワーク自体が
もしくは自己を見ようとするワークが
力を持っており
この過程によって、このワークによって、この作業によって
自ずと明らかになってくるのが
私という観念であり
思考であり心である


そして心とは、意識とは、私とは
根源・源泉がおつかいになっておられる表現媒体のように感じられる
自我を使って数々の私として表現され、そして生き行為されておられるのではないか




ラマナ・マハリシのいう私は誰かとは
私は誰かと、知識や思考や観念でこねくり回すことではない



そのこねくり回している心を直に心なく見る事である








【2013/11/01 06:53】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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