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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
本当は?
主体を肉体や、諸体や個別的霊魂と同一視しているのは
マインドではないか?
対象を知覚しているのはマインドではないか?


マインドが非在の(本当は実在していない)私であり
自己意識・自己感覚であり
他と分離していると実感する私自身であり
根本無明ではないか
それがこの知覚と感覚、認識に他ならない



だが実際には
そのマインドこそ他と分離しておらず
根本無明として全ての個人として
肉体や諸体や個別的霊魂としていきているものではないか



見ているものは見られているものであるのに
見ているものと見られているものは異なっていると
個は全体であるのに、全体ではないと
その本当ではない知覚と認識は
夢見時と覚醒時に起こっている



もし
Kの言うように
「見るものは見られるものである」であり
主体と客体は分離しておらず
主体は客体であるのなら
見る者と見られるものの区別、分離はマインドの錯覚であり



本当はマインド自体は分離していないように思える
マインドは根源の演技のように思える


マインドとは覚醒時と夢見時の知覚と認識に他ならない
この「本当」ではない知覚と認識は死後も続いていく
他と分離している知覚・認識として
「個別の私」感覚として



主体は客体であり
主体は客体と異ならないのを
主体と客体を分離している、として捉えているのは
根本無明であり
それはマインドである


マインドがないとき
鏡には真実の太陽が光り輝いていることだろう
即ち熟睡時に熟睡を観照しているとき
主体と客体の区別はないことだろう


そのとき
主体と客体に分離していない全体性が
私は心ではない

宣言されるのであろう









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【2013/10/27 07:55】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
知られることなく知っている
シャンカラはいう
「見られることなく見ており
知られることなく知っており
知覚されることなく知覚しており
思考されることなく思考している」



この知られることなく・・というのは
未知なる主体であり
”それを知ることのできない既知なる主体”とはこの私達自身のことである


この意識的自己と言う私達、現在意識の(又は夢を見ている)
私達とは思考そのものであり、思考を作り出したものではない・・ということか



それは丁度、肉体や肉体の生死や行為は私達が生み出したのではないように
思考や感情や記憶も意識も私達が生み出したものではないということ
その思考が私達そのものであり
それがハッキリとしている主体感覚を生み出している
それこそそれが既知なるわたしのこと
既知なる意識が(思考が)自己自身という錯覚を生んでいるように
行為が私達が行為しているという錯覚を生じている


即ち私達とはその起こっている意識と行為の結果なのである
決して私達が意識と行為の主体なのではない


ゆえに
シャンカラは「知覚することなく、知ることなく、考えることない」この主体
即ちこの私達である思考の結果(思考の記憶)と
知覚し、実際に考えを起こし、行為を起こしている生きている未知なる主体の
この二つの主体のことを表現されていると思われる
即ち実際に思考を起こしている主体と
既知であり、自分が思考していると思い込んでいる「主体」
そのように実感しているが、結果に過ぎないエレメンタル(私達)についてである





私達である記憶の反応、その反応であるエレメンタルとは
生まれたのは私ではなく、死ぬのも私ではないのに
自分が肉体だと思い込み、自分が思考している
自分が行為していると思い込んでおり
自分が肉体に入った、または肉体から去るとおもいこんでいる

又同様に
考えているのは私ではなく、考えは起こっており
私達とはその起こっている考えの結果であるのに
(行為しているのは私ではなく、わたしとはその行為の結果であるのに)
そして知覚しているのは私ではなく、知覚が起こっているのに
(主体は私ではなく、主体だと思っているエレメンタルであるのに
私達は原因ではなくて、結果である、反応の結果であるのに)





私達は自分が主体であり
自分が思考し
自分が知覚し
自分が生まれ
自分が死ぬと
自分が肉体に入り
自分が肉体から去り
自分の肉体であり
自分のサイキック体であり
自分は霊魂だと思っている




私達であるこのエレメンタルを生み出しているのは
その思考している、見ている、知覚している、認識しているところの
記述不能、推測不能、認識不能な純粋意識
思考では至らない、
見ることは不可能
知覚の対象にはない
自分が知覚主体だと誤った認識している主体を認識している
言説不能、知覚不能な「純粋意識」(仮称)であり




この「純粋意識」から
思考が起こり
行為が起こり
その思考と行為の結果として個別の私という思考の記憶(エレメンタル)を生じさせている
とここで述べているのだ





そしてその記憶維持システムを
「純粋意識」が使用して
カルマと輪廻を回転させている。
あたかも既知なる私が存在していて
輪廻しているという錯覚を起こさしめている




即ちそれは
個別的霊魂であり、コーザル体であり、思考体感情体記憶体であることだろう



しかし
もしそのことを久保栄治の様に単に推測や観念で話しているのではなくて
実感で話しているのであれば



その状態においては
それは「空」であるという
即ち、そのマーヤは(根本無明)は本来の非在の姿を現し
そこには愛(純粋意識)だけがある


という

【2013/10/25 09:37】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
此の意識は根源の使っている媒体
肉体や諸体は根源であり
肉体で生きておられるのは根源であり
「私という観念である意識」を使って演じておられるのも根源であり
肉体も、私という観念である此の意識も、自我も、根源の演技、表現。



諸体や肉体で行為し、出来事を起こしておられのは根源であり
私という観念の意識でもって葛藤や、心の種々相を演じ、それを実感しておられるのも根源である。



思考者はいないのに思考が起こり
(起こっている思考が思考者を作りだしている)
行為者はいないのに行為は起こり
(起きている行為が行為者を生み出している)
経験者はいないのに経験は起こり
(起きている経験が経験者を生み出している)
体験者はいないのに体験は起こり
(起きている体験が体験者を生み出している)
記憶者はいないのに記憶は続いている
(記憶のシステムが個人を生み出している)
自我はいないのに自我という錯覚は起こりそして続いている。
(私という観念が知覚と意識を覆っている)



思考も行為もこの私もあらゆる生命と同様、根源が演じておられる。
輪廻も輪廻している個別的霊魂も神が演じておられる。




根源だけがある




誰一人個人はいない。根源だけがある。
誰一人行為はしていない。根源だけがある。




その根源から
個人・私という錯覚は起こり
私という観念は起こっている。
そして
その私が行為しているという嘘の実感、意識が起こっている




わたしは存在していないのに私と言う錯覚は起こっている、続いている





それが現実らしい





【2013/10/22 08:08】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
意識は私のモノではない
意識は個人の所有物ではない
個人が意識の所有物だ


私は意識が生み出したモノであり
Kが明らかにしているように
その意識とは条件ずけられている
【2013/10/15 06:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私個人が意識しているのではない
意識は私個人の意識なのではないから


意識とは私の意識ではない
事実は全くその反対で
意識が私と言う実体感覚を生じさせており
そして、その記憶が働いているので
あたかも「私という記憶」は自分が存在しているかのように思い込んでしまうのだ


そしてその意識は条件付けられており
その意識の記憶である「私」も当然同じように条件付けられている

その記憶である私が思考するというのは
条件付けられている記憶の反応であり
その記憶の反応は
条件付けられている意識から起こる思考は「私とその私が思考している思考内容」とに分裂しているように
その記憶(私という実感)も当然「私が思考している」という錯覚そのものである


PCに於ける記憶装置は電源がなければ機能しないように
この記憶も生命という電源がもしなければ機能しない


この記憶は起こっている条件付けられた意識の記憶であるのに
自分が思考し、自分の意識だと錯覚している
というのも意識が「自分と対象」とに分裂しているからだ
これが時間と同じように最大の条件付けであろうか









【2013/10/08 06:58】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
行為と行為を評価し判断する自我
行為とは何を指しているのか
聖者達が言っている「行為は起こっている」とは如何なる意味か
肉体の誕生や死亡
病気や健康などと同じくDNAに従って起こっていることも行為と言
える
行為に関連づけられる内面の事柄であるところの
選択や意志も行為と同義であり、同じく起こっているといえる
内面に於ける衝動や欲望や選択や意志や動機や思考は
最新の大脳生理学者達は行為の前に脳内で起こっていることを突
き詰めた
選択や意志とは自分が選択しているという錯覚を伴っているが
その「わたし」という錯覚を伴って意志や選択が行為と共に起こ
っているということだ
行為を為している「源泉」が行為の一部として「それら」を同時
に引き起こしている。
それらの仕事や作業や運動や動作といったものは、前述の内面の
事柄と同時に消化吸収や生殖や排泄と同様、個別の肉体にプロ
グラミングされているDNAに従って引き起こっていることだ
といわれている


それはどういうことかと言えば

運動や動作というものは
視覚などの五感と同じように、肉体維持の自律神経系がなけれ
ば体制神経(運動神経系)は成立しないということから明らか
なのだ

通常では自分が何か驚いたときに、自律神経系の心臓の鼓動が
早くなったり発汗と言ったそれらが影響されると考えられてい
るが
事実はその全く逆で、出来事や、人との出会いや、仕事上のこ
となどはプログラミングされたこととして正確に外部に起こり
その起こっていることが、驚くといった内面の作用を引き起こ
し、条件反応を引き起こしている


性欲や食欲が、また好悪などの恋愛感情が
食べ物の好悪と同じように脳のホルモンの状況や構造に従って
引き起こされるように
肉体の持つカルマやそのカルマなどが引き起こす衝動・行為・
感情・思考などは脳の条件付けやDNAに従って例外なく引き起
こされている


そのカルマによって引き起こされていることは内面であると同
時に外面にも引き起こされる
源泉は内部だけではなく外部も同一のものとして引き起こして
いるからだ
やってきて起こっているのは内部であり同じく外部なのだ、内面
も外部の出来事も根源のものなのだ、
カルマによってDNAが決定され、その決定された脳の構造やその
脳に付帯し起こる行為と同じく、内側や外側の行為と共に起こっ
ている選択や意志や感情や思考もDNAに従ったその個別の有機
体の脳の独自性に拠って起こっている事柄だ



これをわかりやすい言葉で言えば
「選択」
「意志」
「衝動」
「恐怖・不安・悲しみ・絶望・喜び・思考・観念」
「個人・人格感覚」

などであり
それらは起こっている行為並びに
行為と共に引き起こされていることがらだ
やってきている事柄だ
内部も外部も行為も「起こっている」


それに対して、その「起こっていること」に対して
条件付けられているように反応しているものがある
その行為及び行為と同時に起こっているのが
行為に対する、また内面のやってきていることに対して反応する記
憶である

この行為と同時に起こされているマインドの記憶の条件反応であ
り、それはこの記憶の反応、いわゆる個別的な記憶独自の条件付
けられている反応=自我の反応がある
それが自尊心や嫉妬心、競争心、利己心などであり
その記憶は条件付けられていて反応するので
必ず他を自分とは異なっていると認識し、利用しようとし、功利
的に動く
自らは他より先に安定し、安心しようとする。高次の意識を得よ
うとする
それが利己的な動機を持ち何かに至ろう、何かになろう、神と一
体になろうとする自我である
自意識の思考である自我である。つねに分離した自己という自己
意識を持つ自我である



この自我=記憶が、起こっている行為に対して反応し
その行為と共に起こっている内面の「恐怖・不安・悲しみ・絶望
・喜び・感情・想念・思考」に対して
条件付けられているように利己的に反応する・・・これが通常の
人類の平均的状態である

それは条件付けられている記憶の反応なのだ
その記憶が蓄積されて形成されたのが自己、自我ではないか
この記憶が自己意識となり、自己を自意識している
それが幾層、幾次元に重なり、有機体であるこの個別の肉体が死
滅した後も継続していく
それらは表面的自己意識や潜在的自己意識となってあらわれる自
己意識=自我だ
それはそれぞれ
昼には顕在意識、夜には夢に現れる潜在意識となって表されるが
それらは共に、この行為と共に起こっているマインドの記憶の集積
物であり
これらを観照している個別的霊魂という窓を覆い尽くしているも
のだ
幾転生に渉って、個別的霊魂がこの記憶である自我のことを自分
だと錯覚しているのだ


その記憶が今度はそのやってきて引き起こされている行為や
行為と共に起こっている衝動や欲望や感情や思考に対して
反応する
それは良くない、もっと違う選択をすべきだったなどと
または
わたしはどうしようもない人間だ、こんな事をする(またはこんな
事を考えたりする)なんて・・と

あたかも自我である自分が選択し行為しているかのように錯覚し
、思い悩むのである
けれども選択も行為も起こっているのではないか
この反応する自我さえも根源によって起こっているのではないか

しかし
この行為も、その行為が引き起こしている選択も、心も
共に、DNAとしてこの個別の有機体に引き起こされていることな
のだ。そして、同時に起こっていることの記憶であるこの個別の
自我がカルマを背負うのである


この記憶である自我が自分が行為し、自分が選択している、自分
の肉体だと錯覚しているかぎり
この記憶である私は、意識的自己となり、自我となり、カルマを
背負い、いろんな身体に転生する
行為の結果であるからだ


個別的霊魂と言われている窓にまとわりつき
窓を覆っているのはこの自我である
スクリーンと言われる窓があるからこそ
これらの自我も、行為も、出来事もそして意識も無意識も存在
している
あらゆる意識も、あらゆる無意識もこの窓というスクリーンが
あるからこそ映し出されているのである


だが窓の表面である個別的霊魂は
肉体と接点を持ち頭脳と身体に浸透し
完全に覚醒時と夢見時と熟睡時にこのマインドの記憶に
覆われ、肉体やマインドやその記憶である自我と自己同一化して
しまっていて目が覚めることがないのだ


肉体も肉体の行為も、肉体の行為と共にスクリーンにやってきて
いるものだ
恐怖や欲望や悲しみや不安や苦しみや喜びも
内面や外面も、意識も無意識もスクリーンに起こっている、投影
されている


そしてそれらの心というマインドの記憶である自我も
その自我の好悪や、善悪の判断や、動機や、願望や
心の働きや、逃避や、高慢や嫉妬心や自尊心、競争心などの働
きなども、決して個別的霊魂である「未知なる私」
沈黙の観照者としての私自身ではない

肉体は起こっている、そして死滅する
同じように
肉体のもつDNAが引き起こす行為は
この行為を自分が為したと実感し、そう思い込んだ記憶である自我
と共にカルマを背負い

再び
その自我を自分自身だと思い込んでいる個別的霊魂の前に
その肉体(あるときは人間のではないかもしれないが)及び
その肉体や行為を自分だと信じ込んだ自我と共に
現れ出るのだ


肉体は私ではない
行為は私ではない
選択や意志は私ではない
体験や経験は私ではない
感情や思考は私ではない

それの記憶である自我は私ではない

それらと自己同一化している個別的霊魂は私ではない

個別の私はいないのだ
他と分離している私は存在しておらず
在るものだけが在るのだ

・・・と

その様に私は教えを解釈しているのだが、どう思われるか
解釈は誤解であって理解ではない
知覚は心のものであり、心という対象を持つものがある限り
自我は残存し従って理解はない
知識は誤解であり観念であり決して知識や観念ではないとこ
ろの理解ではない
教えとは観念であり、観念を超えている理解ではない
真理は言葉や教えを超越し、知覚や情報伝達という心の範疇
にはない
その言葉や心が完全に沈黙し静まったとき、本来あったもの
が自ら輝くのもしれない。




















【2013/10/05 23:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
この私という観念
これは人類のみならず
すべての有情無情において同一も同じの意識だろう
それは苦しみであり、つかのまの喜びでもあり
感動でもあり、絶望でもあり、満足でもあり、不満足でもあり
それらそのものであり
それらを経験し、知覚している主体、すなわち私という観念であることだろう



それはいつも中心を持ち、対象と分離しており
行為の実感を持ち、時間と空間の中にあって自己を意識している
「私という観念」であるこの私は
確かに意識ではあるけれども
この意識は現実とはほど遠い虚構の観念だ

実際には、どこを見ても
生きているのは私ではなく
呼吸しているのは私ではなく
知覚しているのは私ではなく
行為しているのも私ではなく
私という分離している意識も私のものではない
生まれたのは私ではなく
死ぬものも私ではない

何も私のものはなく
私というこの実感も私のものではない
この私という実感すなわち私という観念は虚構であるといえる


虚偽であり、虚構である非実在の私が
薄い膜のように覆っている

そのように思われる
【2013/10/02 06:10】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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