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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
行為者は誰か
ラーマクリシュナは
「すべての行為は神がしておられます
神が行為者です
私達は行為していると錯覚しています」と云われている

行為や出来事は神が起こしており
自分が行為している実感のある個人はその行為の後に生まれている

行為の選択や決断と
行為の為の思考や衝動や動機や感情とは
行為の後に起こっているのに

その行為の後に起こっている
選択や、衝動や、意志や、感情や、偽の行為主体と


私達は全く自己同一化しているのである


その偽の行為主体(自分が行為していると実感する個人は記憶であって私達ではない)

私達はこの記憶の意識を
また行為の実感をしている人格を
自分だと混濁している
私達は真の私の一部であって
記憶の私ではない
行為していると実感しているのは私ではない
行為の後に生まれている選択と衝動と意志であり感情に過ぎない







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【2012/06/19 06:29】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
行為が私を生み出している
私達は「自分が生きている」と思って疑わないが
このように「自分が生きていると思っている私」
こそが出来事や状況や思考や知覚や肉体や行為と
同じように起こっていることではないか

行為が行為者を生んでいる。即ち行為がこの私達である意識的自己を生み出している。

と思われるのだ
行為者とは自分が行為していると錯覚している記憶であり
マインドが頭脳を通じて生み出している個人だ

そしてその記憶の私のことを自分自身だと統覚機能が錯覚しているのだ
統覚機能は本来、無自己であるにもかかわらず意識的自己という記憶を
自己・私と錯覚したのだ・・・と

だからラーマクリシュナはいう
肉体は神のもの
思考も神のもの
行為も神のもの
自我も神のものだと


私達の意識とは統覚機能と意識的自己の複雑な複合なのだ。そして
殆ど、意識の中身は意識的自己である記憶の反応だ
眠りも熟睡も日中も統覚機能が、脳を介してこの記憶である意識的
自己と結合しているため制約されている
だから自分が行為している、自分が生きている、自分が思考してい
ると思っている記憶の反応である意識的自己が統覚機能を篤く深く
覆っている
それは統覚機能の状態に起因している
七つの燈台が点灯していないからだ


ゆえにラマナ・マハリシはいう「私について考えているのは私ではなく

私は考えることなくここに在るのだ、あなたは在るのだから在りなさい」と。

私達は記憶である意識的自己ではないのだから

統覚機能のその内奥の私に傾注し、傾聴し、目を向け実感するようにしよう・・







【2012/06/14 06:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
無明
神以外に何かが在ると思っている。神以外に私がいると思っている・・・
神以外になにかがあることを知覚し実感している・・・
それこそが神が生み出した無明であり。
この無明が私のこの現在意識にほかならない
この私という自己意識、現在の私の意識こそ無明であり
神が起こしている幻想である
【2012/06/12 07:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
求めるということは起こっている事だ
ラマナ・マハリシより

・行為は自発的に起こさせておきなさい

・求めることや為すことなく真の私に留まりなさい

・考えることとは自我が起こしているのであり、考えることなく留まりなさい

・考えることや私と言う観念・自我とは神から起こっているのです

・誰が行為を為しているのか?それは神である。自我であるあなたは行為していない

 だから行為と出来事と自我とその思考や想念は神に任せて

 真我からのものである純粋理性・純粋精神でありなさい

・熟睡して眠ってしまうのは純粋理性・純粋意識ではなくて自我であり、心である。心が眠るのである
 私と言う観念が眠るのである。その心とは脳と結合しているからである、と言うより心が脳だからである


・私も、自我も、心も神のものであり、神が使用されているものである


以上ラマナ・マハリシよりの言葉です



この私とは、私である統覚機能とその錯誤も含め、神からの心、神からの「私と言う観念」であるならば
言語器官である肉体、感情感覚器官であるサイキック体、思考器官であるメンタル体
知覚器官である統覚機能である個別的霊魂(コーザル体)も
そしてその統覚機能である個別的霊魂が知覚する行為の実感、個別の私という実感も
個人的ではない私と言う観念から生じている
この私と言う観念である心は神から生じ、神が使用されているこころであり
行為や、その行為に拠って生じている出来事も神が行っている(為している)・・・ならば


さらにそれを自分が行為していると錯誤している私・自我・私と言う観念も神が使用しておられるならば
実際には神と分離している私などというものはいないのではないだろうか
この肉体もエーテル複体も、サイキック体もメンタル体もコーザル体も統覚機能である個別的霊魂も
そしてこの個別的霊魂が持つ行為をして私が生きているという実感も
全ては神が心を通じて起こされている・・ということであろう

生きている私とは私のものではなくて神のもの、神が使っておられる統覚機能である個別的霊魂だ
修行し、到達し、達成すべき私とは私のものではなくて神のもの、神が使っておられるものである
悩み、苦しみ、恐れ、心配している私とは私のものではなくて、神のもの、神が私を通じて悩み、苦しみ、恐れ、心配されている

この自尊心、このプライド、この薄情という自我の働きは神が起こしている、神が普遍的心を通じて
さらに私と言う観念を通じて、そしてさらに統覚機能を通じてそれを統覚機能という個別的霊魂に知覚させている、そしてその統覚機能のマーヤ・幻想・錯誤を起こしている
だがその錯誤という幻覚を起こしている個別的霊魂も神のものである。神なのである。
その普遍的心もマーヤという私と言う観念も、それを知覚している統覚機能も神のものである
思考体も感情体もエーテル複体も肉体も全ては神のものではないだろうか


このプライド、恐怖、自尊心、悲しみ、達成欲、悟り欲、一生懸命に真我を実現しようとして至ろうとして努力しワークするこの自我の行為も、また一切の自分が為しているという行為の実感などは自我のもの、心のもの、そして神のものである
即ちその自我の実感は私と言う観念のもの
この自我の苦しみと恐怖と行為している実感とは私と言う観念が引きおこしており
その私と言う観念・自我は神から生じている
といえよう

だから自我が生きているのではない
自我が行為しているのではない
自我が悟るのではない
自分が瞑想しているのではない
自分が努力しているのではない
自分が苦しんでいるのではない
自分が行為していると錯覚しているのではない
自我が良くなり、至るのではない


自我というわたしはいない
私・あなた・全ての人類・自我とは神が使っておられる媒体であり
自我とは真我のものなのである
あるのは心であり
その心は神によって使われているのである
神は心を使用して現象界を生きておられるのである



【2012/06/03 07:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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