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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
自我は根源が使用している
究極の意味で行為しているのは誰なのであろうか?
誰が身体を動かし行為しているのであろうか?
勿論それは自我ではなく、霊魂でもなく、根源である、自然である、タオである


では行為していると思っているものとは誰なのか
それは自我であり、霊魂であるが
それはさらなる真実ではそれらの自我を使い、霊魂を動かしている根源なのである
自我や個人的霊魂とは、畢竟「根源によるの自我」なのであるからだ
自我それは心であり根源の道具である
根源が自我を使い、この現象界の全てをあらしめ
「私と言う観念」によって自我を行為していると思わせているのも自分自身即ち根源であり
それをそのように「自分が行為している」と錯覚しているものも、それも根源である


自分が行為していると思い込んでいる自我・意識的自己とは根源の演技であるからである
ではこの自我・意識的自己とは私と言う観念であっても「真の私」であるのか
否それは否である
意識的自己とは私ではない
クリシュナムルティーのいうように
私はいつも見ており、自他に分割できず、実在であり、存在であり、全体であり、意識そのものであり
この意識的自己を常にあるがままに観照しており
思考なく、心なく見ているものであるからである
この私は真実の私であり、意識的自己は「観察者は観察者である」ところの心の幻影に過ぎない

意識的自己とは私を覆っている私という観念であり、私ではない自我である
それは根源が演じておられる自我であり私ではない

この現実的な自己とは意識的自己ではなくて
真の私と繋がっている
真の私の一部であり
真の私そのものである私なのである
私が私を覆っている私と言う観念を私だと錯覚しているのである
この錯覚こそ根源による錯覚マーヤでなくてなんであろうか



私達は私と言う観念ではない
私達は個別的霊魂というマーヤの一部ではない
私達は意識的自己ではない
私達は自我ではない
しかし
これらの私と言う観念によって覆われているので見えていないだけなのであるから
クリシュナムルティーは
あるがままをあるがままに見よ
と常に教え続け
ラマナ・マハリシは
あなたは在るのであるから、思考なく在りなさい、在ろうとするは辞めなさい
何故ならあなたはすでに在るのであるから!
と言われ続けたのである

何故彼らは
私達に見なさい!在りなさい!と言われ続けたのであろうか?
それは私達は私と言う観念ではなくて
私と言う観念に覆われてはいるが真の私なのであるからである







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【2012/05/25 08:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
純粋意識の作品
私という実感や
私の感覚や知覚や記憶や身体は
勿論私のものではない
それは、「私と言う観念」のものである
「私と言う観念」がその私という実感を増やすことも消すことも
自在に行っている


何故なら私という自我の実感と知覚と記憶と身体と観念は
私のものではなくて「私と言う観念」の一部であるからである

そしてそれを知覚している統覚機能も
私のものではなくて
純粋意識の一部である


畢竟するに
自我の実感も私と言う観念のものであり
それを自分だと錯覚している統覚機能も私のものではない
私という自体はどこにもいないのである


あるのは
私と言う観念を起こしておられるマーヤであり
それを観照しておられる純粋意識だけなのである


この私という実感と記憶と身体は
この純粋意識の作品なのである




【2012/05/13 08:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
錯誤は虚偽を虚偽と見ている
虚偽を虚偽と見ているのは虚偽である
虚偽だから虚偽を虚偽と見ているのだ
統覚機能の錯誤が虚偽を虚偽と見ている



虚偽の中に真理を見ているのは真理である
真理は虚偽の中に真理を見ている。
それは純粋意識である真理だからだと。
真理は全てに真理を真理と見ている


愛憎を愛憎と見て愛憎を感じているのはその愛憎自身である
しかし
その愛憎の中に真実なる愛のみを見ているは真正なる愛である


正邪善悪を正邪善悪と見ているのはその正邪善悪である
正邪善悪の中に正邪善悪を超えた唯一なる真理を見ているのは
正邪善悪を超えているその唯一の真理である。その純粋意識である
と言われている
それこそが
魂の内奥の純粋意識であるのだと


悲哀と狂気を見ているのはその悲哀と狂気である
狂気が狂気を狂気だと見ているのである
悲哀が悲哀を見ており、悲哀ということを実感しているのだ

そして
その悲哀と狂気のただなかにあって真正なる愛と慈しみを見ているのが
その愛と慈しみ自体である・・と


現象を現象と見ているのが現象である心・マインドである
心には現象しか見えない
現象とは心であり、心が現象であるからだ
そして現象の中に実相を見、現象の中に実在を見ているのが
心・マインドではないところの純粋意識である、と
そしてそれは
ノーマインドではなくて純粋意識である
純粋意識が現象の中に純粋意識を見ているのである
ノーマインドはマインドであるのだと



心を心と見ているのは心である
心の中に心を超えている意識を見ているのは意識である
意識は意識を見ている、気づいている



真理の真正なる愛の目の中にはそれら愛ではないものが存在していないからである
真理の神聖なる愛の目の中には愛しか存在していないからである


恐怖を恐怖と見て恐怖しているのは恐怖である「私と言う観念」である
「私という観念」が自身である恐怖を実感し見ているのだ
しかし
その恐怖がその恐怖と共に動かずにあり
その恐怖が自分自身であることを恐怖が悟ったとき
静まる、沈黙する、動きはストップする、心はどこにも行かない。止まる。


そこに奇跡が
そこに変容が起こる
そこに新たなる新生が起こる


何故なら
恐怖を正見している純粋意識の中には恐怖は
存在しておらず愛のみを見ているからである・・・と


だからその
恐怖を実感する恐怖が恐怖という自分自身であったとき
見ている自分自身が恐怖であったとき
そのとき
虚偽が停止し、もともと本来あったものがそこに顕れると
その恐怖が消滅し、変容しそこに愛と慈しみが顕れるのであると
ということであろうか

それが虚偽の中に真理を見ることにほかならない
のではないか


それがクリシュナムルティーのいう
虚偽を虚偽と見る事
虚偽の中に真理を見ること
真理を真理と見ることではないか


統覚機能が統覚機能に知覚されるそれらの
知覚対象である心を自分自身だと錯誤したのである


実際には統覚機能の内奥は純粋意識であり
真理であるからだと教えられている










【2012/05/12 07:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自我の正体
神ご自身が、あなたを通じて多くの仕事をするために、あなたの中に、その自我意識を残しておかれたのです。
 あなたの自我意識・その我性は誰ものであろうか?それは神ご自身のものである。

                      ラーマクリシュナより

私は肉体であるという、無知である意識がなくなってもいないのに、
「私はそれである」というのは良くありません
 感覚の対象を捨てることが出来ないものは、どうしても「私という観念」はなくなりません。
神のみが行為者で、その他すべては神の道具です。
 それ故に、ブラフマンの智者たちも、自惚れることは出来ないのです。


ラーマクリシュナ
【2012/05/08 15:31】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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