FC2ブログ
気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
自分を所有しないように
自分を所有しないように


老子は自分を所有しないように・・・と言っている




この言葉に対して
私達がそれを素直に受け入れて
それに進んでいこうとしているものに対して
評論家たちが
それを言っているのは一体誰か?とか
自分を所有しないと言っているが、それを言っているのが
その当の自分ではないか・・・とか
それを言うことは自己否定であって
自分が自分の事を所有しないとは自己矛盾している

・・・云々と



けれども、その一見理論的なそれらの考えというものは
自分である思考の立場から、この老子の言葉に関しての意見を
(思考の立場から)述べたものであり
(即ち自我の思考である自己の立場を一歩も譲らず述べたものであり)
それは老子を結局は誤解釈している事になるのである
事実は
その評論家の誤解釈とは間違っているのであるということだ。
自己を所有しないことで真我が顕れるのである(元来あったものが肯定されるのである)
であるから
老子は不可能を言っている・・と言っていることこそが
自我からの言っている言葉なのである



この「自己を所有しないように」と言っている
言葉を素直に聞くことが出来れば
それは、そのように自らを規定していく事になるのであるし
不可能だと言えば、その不可能なように自己を規定していくのである
なので常識人のように・・・この老子の言葉に対して
それは真我からの言葉であり
私達、真我を実現していない自我にとっては
その言葉は自己矛盾している、それは私達には該当しないと
そのように自我の考えから自己を規定してしまえば
そのようになっていく事になるのである
即ち自己を超越することは不可能となる




素直に老子が言われる言葉を
聞けるか聞けないかが、
分かれ道なのである



私たちは自己を所有しないことが出来るのである!!!
だから
老子は話しているのである


それはちょうど
クリシュナムルティーは人類に対して不可能なことを話しているのだ・・とか
「思考なくして見よ」とは不可能なのだとか・・・・と評論家たちが言っているのと同じだ

そのようにクリシュナムルティーは不可能のことを言っているのだと言ってしまうことで
人類は自己を規定してしまった
不可能だと思う事自体が、それは私達人類の思考からの考えであって



クリシュナムルティーの意識、彼の言葉は・・・即ち思考から解放されて
思考を見極めている方々の意識からの言葉であるということに気がつくべきである
「あるがままを見ること」は可能不可能の範疇にはなく
するかしないかの範疇なのである



だから
それは不可能だということで
自らを規定してしまった評論家の、その過ちに気がつくべきである


クリシュナムルティーが
あるがままを思考なくして見よと言うのは
可能か不可能なのかではなく
それに挑戦するかしないのかのことがらであり


それを、私達人類は、思考である立場から
思考が思考を見ることは不可能でありクリシュナムルティーは不可能なことを
人類に対して言っていると・・・・
そのように曲解してしまうことで自己を規定してしまえば
自己はそのようになるのである
そして人類は
この最大のチャンスを逃してはいけないのである


自分を規定してはいけないのである
自分を規定すれば
規定したようになるからである
既に在るからそのように在ることで在ることが顕わになる
在ろうとしたり、方法を探すことで、既に在ることを否定することによって
既に在ることから離れていってしまうこととなる



これと同じように
老子の「自己を所有しないようにしなさい」も
可能とか不可能かの問題ではなく
それを受け入れれば、自己を超越する・・・そのようになるし
それを拒絶して
「自我が自我自身を所有しないとは、自己矛盾である
誰にそれをできるのか?それは真我しか不可能である」と
自己を限定すれば
自己の超越は不可能になる


要点はここであり
クリシュナムルティーの言葉や
老子の言葉を
受容するかしないかの問題であって
それは
不可能である言って、その真理を
拒絶し、自己を限定してしまえば
自己の超越はあり得ないのである


それ故に
私たちは
出来る出来ないに拘わらず
「自己を所有しないように」するべきなのである






スポンサーサイト



【2011/10/30 20:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
あるがままの中にこそ
あるがままの中に真理があるのではないか
あるがままの中に鍵があり
あるがままを見る事の中に解放があり、真理があるのに
それをあるがまま以外に求めることは「私」から離れることである
真我はこのあるがままの自己を見ることの中にあるのではないか
起きている事、やってきていること、をあるがままに見ているのが
本当の私なのではないか
私は、真の私はこのあるがままをあるがままに見ている
真の私はこの自我をあるがままに見ているのだ



実は内部と外部のあるがままの現実の中にこそ
即ち
あるがままをあるがままに思考なくして見る事の中に一番大切な真の私も真理もあるのに
それを
瞑想して、
修行して
何かをして解放や悟りや真我に至ると思っているのが思考であり、記憶であり、心であり、
「私という観念」=無明である

私においては既に思考なく、心なくあるがままを見ている。
真の私は思考なく、心なくあるがままを、分離なく、分割なく見ている意識なのだ


一番大切なものが
今ここに、一番近いところに
あるがままの中にのみあるのに
それを
自分以外のどこかに、誰かに求めることは
真理と愛から離れ去ることである。遠ざかる事であり、それは心の働き、無明の働きである。


何かに成ることや、至ることや、成就することは
既に在るのに、真我から離れようとしていることだと言うこと
それは私ではない「私という観念」が起こしていることであることを
知って、動くこと、なろうとすること、私自身で在ろうとする事を止めるとき




あるがままをあるがままに見ることが始まる





思考なくして
マインドなくして
心なくして
あるがままを見ているとき
そこに
分離はなく
全ては一つであったという
あるがままが
姿を顕していることだろう





全ての鍵は
いまここのあるがままにあり
内部と外部のあるがままが鍵である
この現実の姿を、判断なく、分類なく、非難なく、言葉なく
自分の内部と外部を心なくして見るとき
あるがままである愛が、至高の実在が
そっと姿を顕している

と教えられている


【2011/10/27 23:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
こころのいる次元
魂であり鏡である統覚機能とは心であり
従って対象として、自他のこと分離していると知覚してしまう

知覚とはそれ故に心の機能であり、主体と客体に分離しており
意識ではない
知覚とはこの魂が肉体に入ることによって発生した自我(思考の記憶)
の側面である


この鏡によって対象として知覚される心には
それぞれに波動の違いもあり
次元の違いもあるが
大まかには

■動物魂からの欲望や思考もあり
■根源からやってきている思考もあり
■集合意識や潜在意識からの思考もあり
■個体としての自我である記憶や、この自我である諸体からの思考もあり
■この思考を知覚している鏡からである魂からの思考もあり
■意識からの高次の思考もある(否定的接近といわれる思考である)

そしてこれらの思考は
その心の次元によって作用が異なるが
これらは意識ではなくて心であるから
二元分離している
































【2011/10/21 00:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する