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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
自我の主体は神である
神ではないものは何ものも、存在していない。

神であるが故に
この感覚も、思考も、悩みも、苦しみも、喜びも、恐れも、記憶も
存在している。


錯覚も、偽りも、真実も、神であるが故に存在している
全てが神である。
神以外には何も存在していない
私と言う観念も神があるが故に存在している。
神以外には何ものも存在していないのではない
という
観念も、神の中にある。



この現在意識の私とは神の道具である自我である。

自我を使って神は演技しているが故に
自我の本当の主体とは神である。



「神以外のものは何もない」と思う事は
神の想念である。
従って“神ではないもの”は何もないのである。


それに反して
「神ではないものは何もないことはない」と思うこの想念も
神のものである。



私という想念、記憶である私という自我、や「統覚機能である魂」
の主体は神である




行為の主体は神である
知覚の主体は神である
自我の主体は神である
全ての世界の自我達の私を使って神が演技している
私の主体は神である、私とは純粋空間の意識である





神だけが生きており
神だけが行為しており
神だけが知覚しており
神だけが認識しており
神だけが自我の衣を被って、自我を演じている




私という自我の衣を被って演技しているのは神である




この知覚の主体は神である
この記憶の主体は神である
この行為の主体は神である
この自我の主体は神である
この貴方の主体は神である
この生き物の主体は神である
この魂の主体は神である
この自我を自分だと錯覚している魂も神である




神だけが生きており
神だけが演技しており
神だけが自と他の分離を与えており
神だけが内と外の分離を見せており



神以外のものを内にも外にも見る事はできない



そのように云われる



そしてその神は
さらなる神の中にある
といわれている





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【2011/08/29 09:45】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
神の虚構
私自身の実感
私が生きていると思う事
私の思考だと思う事
私が行為していると思う事
私が意志していると思う事
私の体と思う事
私の心だと思う事



それらを思うこと
それらの実感と
それらの感覚知覚は
神の虚構そのものです


ラーマクリシュナより
【2011/08/25 08:14】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
瞑想しているのはどの私か?
自分も含めて瞑想は何で行っているのであろうか?
何かに到達しようとして座っている私とは誰なのか?
それは何かに至るため、最高の宝を獲るために瞑想している、真我に到達しようとしている。
としたらそれは良いことであろうか?
それともそれは最高に利己的な行為であり、愛のないことなのではないか
それは邪悪なことではないのか!!


その目的と動機を持っている私と同一化してしまうことは、私から離れていくことである。
思考や五感や「私という観念」と自己同一化してしまうことは、私から離れていくことである
その目的と動機を持って瞑想に励む私・・・それは自分の利益だけを考えている亡者なのではないか?

それは愛の行いであろうか
それともそれは愛の全くない行いではないか?
その亡者とは一体誰か?




何故、最高の宝を他人にまず最初に与えないで自分が獲ようとするのか?
その獲ようとしている私とは一体誰なのか?それは私ではない私であろう
普通の人間なら一番おいしいものを真っ先に自分が食べたりはしないことだろう
それなのに、ここ精神世界ではそれが平然と行われている餓鬼畜生の世界なのである。
全く愛のない世界なのである
愛が、あるとき、自分自身が真我に至ろうとして瞑想をするだろうか?
愛があるときに、自分が解脱しようとしてワークするのだろうか?
修業するのだろうか?
愛のある私であるとき、至ろうとしたり、悟ろうとしたり、解脱しようとしたりはしないことだろう
愛であるなら、私とは既にあなたであるからである
私は何ものとも分離していないからである。



愛がない私であるから、何かに成ろうとして
今以上のもっとましな自分になろうとして
瞑想したり、集会に行ったりするのであろう
その瞑想や集会やワークに参加することには自我の目的があり動機があり、
それは非常に利己的なものである。
それは愛を否定している。自己を否定している。本当の自己とは他者と分離できないからである。
その本当の私であるば、ならなろうとすることはなく、既に在るからである。
常に自分の利益を獲ることに標準が合って、最高の宝をあなたではなくて自分が獲ようとしているのはどの私か?
常にもっともっと自分が良くなり、真実を感じるようになり
霊的に向上し、もっと平安と沈黙に溢れ、愛が充満し、至福に満たされ、霊的知覚が豊になり
人に親切に行えるような愛のある人間になれるようにとしている・・・・それらの成ろうとしている私こそ
私から去っていく働きをしている「私という観念」に他ならない
自己の利己的な願望に満ちているとは自己欺瞞しているのである
その成ろうとしている思考の働きは私ではないからである。
「私は在る」が私の働きである。思考や心ではない。

その最終的な利己心である「私という観念」とは真我にいたり、輪廻から解放されることを
心から願っているのである・・真我に成ろうとしている・・それゆえに
それは観念でしかないのである。
事実は既に成るのではなくて真我だからである。
事実の実在である私とはそれらの「私という観念」ではないと、ハッキリ言明することだ


そのあなたが解放されるように・・ではなくて自分が解放されることを願っている
のは、私ではなくて「私という観念」なのである

自分が自分ではない思考を、想念のことを自分だと取り違えているのである



瞑想をして真我に至ろうとしている私とは
最高の素晴らしい真我という宝を獲ようとしているハンターであり
それは愛である、真実の私のやることではない
このハンターの目的は常にこの自己が豊かになること、霊的に深化すること、獲得することであり
あなたに対してこの覚醒という宝を分かち与えようとしているのではなく自己の利益が目的なのだ。
そのあなたに宝を分かち与えることの報酬で、愛である私に到達し、真我実現しようとしているのだ

私ではない私を私だと思っているのは私ではない。それは神の演技である。
アートマンはブラフマンだからである。



あなたに真我という宝を与えようとするのではなくて
何故に自分がその宝を獲ようとするのか、輪廻の鎖からあなたが解放されるように願うのではなくて
自分が解放を獲ようとしている私とは
まさに解放されていない虚偽のわたしである証拠なのである




真我に至ろうとしている私とは、真我ではない私
虚偽の私、思考である私、想念の私、記憶の私であり、その私とは「私という観念である私」に他ならない
私であるなら真我に至ろうと努力したり瞑想したりして利己的な行為に没頭したり、そのために家族をないがしろにして瞑想に耽ったりするはずがないからだ



真の私が、そんな目的や動機を持って瞑想するのだろうか?
それは東大に入ろうとしたり、成功して社長になろうとしたり、コンクールで一位になろうとしている事と同じだ
他人よりもまず私が、自分が大切で、まず真っ先に霊的に真我に至ろうとしている。
その目的と動機こそ真の私と全く反している偽物の私から起こってきている事である
その私はなんで自分だといえようか?
自分であるなら解脱しようとしたり、悟ったり、高次の知覚を獲ようとして瞑想したりするのだろうか、否、そのような利己的な動機を持つはずがない。
既に真の瞑想であり、高次の知覚であるからである。
解脱しようとしていると言えば、自己や他人には対して聞こえはいいのだが
実際は、愛の状態とはかけ離れており、まさしくガリガリの利己亡者に他ならない
そのような利己亡者が、到達した真我とはまさしく愛とは正反対の巨大なエレメンタルであることであろう
目的が到達点であり
動機が結果であるから
そのような動機と目的を持つこと自体が、真の私ではなくて、私という観念の働きであり
私であるなら目的や動機や判断や善悪はもつはずがない


その利己的な努力の果てに結局はその中で、愛や真我とは正反対のものを解脱だと称して獲得する
事であろう
それはスタートが間違っていたのだ、自分の事を真我ではないと自我が錯覚し、
私という観念や五感や、諸体の感覚や、思考や肉体を自己と取り違えたところから
真我に至ろう、高次の知覚を獲よう、解脱しようとして、瞑想を、ワークを間違って自我が始めたのである
私ではない「私という観念」や頭脳や諸体を自分と錯覚したのである



必死になって真我に至ろうとして利己的な瞑想に励む、その私こそ、私ではない私、愛の全くない
常に何かに至ろうと、自分の為に獲得しようとしている偽の私なのではあるまいか

この瞑想をして解脱しようとしている偽の私は「私という観念」であり
その私と決して同一化して、自己的な行為に耽ってはいけないのではないか





【2011/08/19 22:50】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
肉体は素晴らしい
「ある若者の祈りの言葉」から抜粋


肉体は素晴らしい
神はこの肉体と諸体を使って思考し行為されているから


魂・現在のパーソナリティーは素晴らしい
神はこの魂・現在のパーソナリティーを使って創造をされているから


同じようにエーテル複体は素晴らしい
エーテル複体を使って肉体の機能を維持し完全にならしめられているから


同じくアストラル体は素晴らしい
このアストラル体という感情体を使用されて感情を表現されているから


同様にメンタル体も素晴らしい
このメンタル体を使用して思考を表現されておられるから


同様に記憶機構も素晴らしい
記憶を使用して記憶の反応である自我・人格や個人の反応を使っておられるから



そして
現在のパーソナリティーであり、かつ現在のパーソナリティーと一つであり
魂とも自我とも統覚機能ともよばれ
観察者である、この私を
貴方はお使いになられて演じ、表現されている


何一つ私のものはなく、
何一つ私だいえるものはなく、
何一つ私が為しているものはない
私自身が貴方のものであるから



全ては貴方が起こし、貴方が為しておられる
「自分が起こし、自分が為していると錯覚している私」を
お使いになられて貴方が為し、貴方が起こしておられる




貴方は
この私の、魂の内奥にあり
統覚機能であり魂であり現在の私であるこの「意識の座」とこの「時空の場」を通じて
自らを表現されておられる



貴方は意識、純粋意識、至高の意識、全ての意識
貴方は沈黙、静寂
貴方は不変で普遍、あらゆる次元
貴方は全て
貴方は愛
貴方は行為者
貴方はこの魂、現在のパーソナリティー、そして自我の奥にある真我
貴方はマインドという、心、二元、時間と空間、質料、素粒子を使って
この三界で自らを表現されておられます



貴方の創作作品であるこの私
この魂やコーザル体やメンタル体やアストラル体やエーテル複体や肉体をお作りになり
そして使いになって、行為し、考え、思い、欲し、全てを為さっておられます
私とは貴方です
私は貴方の道具であり、絵筆だからです




私であるこの現在のパーソナリティー=魂、自分は
貴方の道具であり、貴方の芸術作品です
貴方が私の内奥です



私、魂は(統覚機能は)行為しておらず、思考しておらず、欲しておりません
生きてもおりません
生も死も、誕生も死亡も、健康も病気も、成功も失敗も、善悪も、好悪も、内部と外部も
自分自身も含めて
そして私を通じて表現される「心」も貴方の道具であるからです



今後も
貴方がなすがままに為され
貴方が表現されるがままに表現され
貴方が演技されるように演技されるでしょう
私を通じて、私達を通じて


個人・私とは何処にもおらず、存在しておらず
個人・私とは貴方の「私と言う観念」であり
貴方だけが生きておられるからです
全ては貴方の内部だからです



【2011/08/15 07:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
生きてると実感しているのは誰?
自分の人生であり、自分が生きているんだ、と実感しているのは誰?
自分の考えがあり、自分の体があり、自分の感覚があり、
自分は他人とは異なっていて、
そして対象を知覚している自分自身という個人である実感がある
のは誰?
これは自分の体だ、自分の財産だ、自分の銀行預金だ、自分の
才能だ、自分の地位だ、私の人生の成果だ、俺の家族だ等と思
っているのは誰?
自分が生きているんだ、自分の人生だと思っているのは誰?
自分が行為しているという実感があるのは誰?
自分という「他と分離している私」という実感を持っているのは誰?
自分の思考だ、自分の恐怖だ、自分の失敗成功だと思っているのは誰



それらの実感を持っているのは私ではないのではないか
その私とは、実は「私と言う観念」ではないだろうか



これに対して
人はきっと言うだろう



君が思っているのは、それは単なる教えであり観念に過ぎ
ないことだよ・・と


だが、人がそう思い、それが真実ではないと確信させる五感や知覚、
人のそれらの現実の知覚と感覚と「実際・現実の私」として感じ
られる主体感覚・・・それらこそが観念であり、
「私と言う観念」から生じている観念であるにすぎないのではないか



ひとはその観念と自分である統覚機能を自己同一化してしまって
おり
自分だと思っている自分とは「私という観念」に過ぎないということ
それは私ではないと言う
ことに気がつかないのである




では、その「私と言う観念」を自分だと思い込んでいるのは誰か?
それは、その「私と言う観念の自分」を私だと思っている統覚機能では
ないのか



諸体の脳からの感覚器官で得た感覚を知覚し、その結果
感覚器官の感覚と同一化し、その感覚器官の感覚を自分が知覚し
自分が認識していると思い込んでいるのは統覚機能ではないのか?



私が感覚器官の感覚を知覚しているから認識主体だ・・とそう
疑いもせずそう思っているものこそ統覚機能という魂なのである

その「自分が認識主体」だと思っている私とは単なる統覚機能で
あるものにすぎないのであり、
その私の内奥に真の私が続いていると言われている



さて、その魂である統覚機能が誤って私だと錯覚している私とは
実は意識や精神ではなくてエレメンタルではないのか、身体の
属性の思考ではないのか
それは私という観念である
もし意識なら自他の区別はなく、自他の知覚と認識を共有しているからである



統覚機能である私は、「私と言う観念」の私が身体に於いて
感じ、考え、悩み、行為しているのを見て、間違ってしまったのである



肉体の事を私だと錯覚しているのは、統覚機能である私ではなくて
「私と言う観念」の私なのだ
その肉体を私と思う「私と言う観念の私」を統覚機能の私が自分だと取
り違えたのである



それらの私とは私という観念であって私ではない、と言えるだろう
私達はその観念のことを「私」だといえるのであるのだろうか?
統覚機能の私は、私ではないエレメンタルである私を私だとは言
えないはずだ
魂の私が「私という観念」や記憶の反応である自我を私だと錯覚
し取り違えたのである




さて私は「私という観念」であるのだろうか?勿論違う!
それとも私とは観念や思考やエレメンタルや諸体などという
精神ではない非存在に過ぎないものなのだろうか?



否!勿論違う、私は精神ではないものなどでは決してない!

私とは「私という観念」や思考や、エレメンタルや、物質や、質料であるにすぎないものではない



では果たして私とはそれらの肉体や、身体や、エレメンタルや「私という観念」や記憶である自我・人格
にすぎないものではないとしたら、私とは誰か?


ラーマクリシュナは言う
熟睡時に肉体頭脳の熟睡を観照し、正見している「意識」が私であると

それは日中の覚醒意識や夢を見ている夢眠意識を非対象で非思考で観照している虚空である意識であると




私は身体や物質なのだろうか?、質料なのだろうか?自我なのであろうか?
「私と言う観念」なのであるのか?私は行為に関与しているのであろうか?



正しい本物の聖者は言う
私は身体ではない、従って行為していない
私は質料ではない、エレメンタルや「私という観念」や自我、人格ではない
私は思考ではない、・・と
逆のこれらの私ではないものを私であると信じることや、その「私と言う観念」を
自分だと思い込むことは「観念の私」の働きにすぎないと

だから正しい、真実である観念ではない私についての観念を抱きなさいと
それが正しい観念であり否定的接近の観念であると


ここで、私達が陥りやすい罠がある
「私は誰か」の回答とは、似て非なる嘘の聖者が言うような「私は存在していない」が結論ではなくて
この正しい否定的観念から「私は存在している」の「見」が生まれるのであり
本当の私が露わになることのである
「わたしは真の私である」これが正しい回答なのである



その為の一つの道として
この否定的接近からの正しい観念から「私は実在している」という真の私からの
「観念ではない正覚」が生まれる
それは虚偽の観念は非実在から生じているに対して
真実の観念とは実在から経由して観念が生じているので
同じ観念のように見えても、実際の質料の中身が全く異なっているのである
観念質料の波動とヴァイブレーションが異なっているので、観念を超えている次元の同じ波動の根源へ導かれていくのである
ここのところはラマナ・マハリシやラーマクリシュナが詳しく説明している




この時、自律性、自動性から
正しい正覚が生じ
私は愛であり、遍満している・・という真実が露わにされる




これら否定的な接近は
肯定的な「私は在る」の内容の直覚を内包している・・・・と





【2011/08/02 10:07】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
神ではないものは何も存在していない
(ある聖者からの教え)

神ではないものは、この世にも、あの世にもない、
神でないものはなにも存在していない
この世にも、あの世にも、内側も、外側も神でないものはない
神ではないものはなにもない
全ては神である
あらゆる次元の全ては神そのものである、神がなければ全ての全
てが存在していないからである


神ではないものがあるという無明も神があるゆえである
神ではないものも、神を否定するものも神なくしては存在しない、
其れも神があるから仮象しているである
神を知らないものも、神を認知しないものも、無知も、神なくし
ては存在していない、其れも神あるが故である
神を知らず、神を知ることのないものも、神あるがゆえである
二元分離も、神の否定も、神への不信も、神への無知も神から
のマーヤが起こしている、其れも又神あるがゆえである
偽神も神ゆえである、神を詐称するものも神なくしては存在できない、
その神ではないものも神が実在しているからである





自我は神なくしては存在できない。神が自我を使っておられる、
神が自我を使って演じておられる
他己も自己も、私の魂も、貴方の魂も、神の一部であり、神その
ものゆえである



心の中のあらゆる、肯定的なことも、否定的なことも、受け入れ
られることも、受け入れられないことも神なくしては存在してい
ない。神が其れらを使って絶対的純粋認識をされているのである。



其れを受け入れたり、拒絶したりする自我も、魂も、神あれば
こそ存在している。
神が私と貴方を生み出し、魂を使っておられるのである



敵も、味方も、黒も白も神なくしては存在できない。神のマーヤ
が敵であり、味方であり
私であり、貴方であり、白であり黒であり、天使であり悪魔である
ブラックもホワイトも神なくしては一瞬たりとも存在できない
その一瞬ということも、神なくしては存在していないからである
全ては神の中の事である
神以外に何も存在できないし神しか存在していない


神が愛であり、平安であり、
憎しみも恐怖も思考も神がなければ存在できない。
全ての良きことも、良くないことも
神なくしては存在できない。
神の愛とは、愛と憎しみの区別を超えている愛である
神の平安とは、平安と恐怖の対立を超えている平安であるから



戦いも、苦しみも神が演じられ、敵も味方も、私も貴方も神の演技
であり
両者はマーヤである。神が敵と味方に分かれ、神が悩み、苦しんで
いる振りをしておられる、神が両者に別れ、演技をしている。と
神がなければ敵も味方もなく、私も貴方も存在できないのだ
神がなければ戦うことも、悩むことも、苦しむことも出来ないのだ




もし神がなければ
もし太陽がなければ、善も悪も、敵も味方も存在できない
もし空気がなければ、良いことも悪いことも存在できない
もし時間と空間がなければ、認識も知覚も記憶もなく、
アカシックもなく、白も黒も、悪魔も神々も存在できない
もし神がなければ私も、貴方も、いかなる何人の魂もあり得ない。
もし神である純粋精神がなければ、低次の感覚・五感や、
記憶の反応や思考やマインドや印象や記憶や、観念、エレ
メンタルや精霊や悟りも迷いも存在できない
全ては神そのものである。神があるが故である
神しかいない、神しか存在していない


ここに愛が燦々と降り注がれているからこそ
ここに太陽が燦々と降り注がれているからこそ
ここに生命が燦々と降り注がれているからこそ
ここに意識が燦々と降り注がれているからこそ
ここに呼吸が燦々と降り注がれているからこそ
ここに時間と空間が燦々と降り注がれているからこそ

全てが存在していることが出来る
その全てこそは神そのものの演技である


自我も神の演技であり
貴方も神の演技であり
分離も神からであり
行為も神からである
敵も味方も神の演技であり
善も悪も神なくしてはあり得ない
無明も神なくしては存在できない



と、そのようにアドヴァイタの聖者は教えられている



【2011/08/01 07:32】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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