FC2ブログ
気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
観察者と観察されるものを同時に見る
観察者と観察されるものを同時に分離せずに見る、ただ見る


自我と自我を見ている自我を同時に分離せず見る、ただ見る


内部と外部を分離せず同時に見る、ただ見る、受容もせず、拒絶もせずただ見る



恐怖と恐怖を見ている私を同時に見る、ただ見る


不安と不安を見ている私を同時に見る、ただ見る


そして、その見は真の私に繋がっている


その見の中に、真の私が顕現してくるといわれる


スポンサーサイト



【2011/03/19 08:27】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
恐怖を観ている私とは誰か
恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我の動きを見ていて、観察している私とは誰か?

自分の内部のその恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我をみて、それから解放されたいと願い
自己を観察し続けている私とは一体誰なのか?


それらの恐怖がなくなって愛に溢れる私になりたいと願っているわたしとは一体誰か?



それらの私を、対象として見ている私こそ「私という観念」ではないだろうか
「私という観念」である、その中身こそが、それ自らが自らを分離して
観る私と、見られるマインド・心に分割しているのでないか
観ている私と、その観ている私によって見られている私である「私という観念」
それこそがそれら恐怖等のマインドなのではないのか




意識の表面に発見されている
その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我の動きを見ていて観察している私とは誰か?



それこそが
その観察されている恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我ではないだろか



この過程においては
実際はマインド・心がマインド・心を分離して見ているだけなのである
それがマインド・心の特性であるからである



意識の表面に映っているそれらの恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我を


対象として、私が見ている客体として捉えて知覚し、認識しているのが
その二元分離そのものであるマインドであり、そのマインドという「私という観念」である


その見る主体と
見られる対象という具合に
自他に分離し
主体と客体に分離することこそが無明そのものの見方、観察の仕方である

主体と客体というように自他を分離する無知
これが純粋意識の上を覆い被さっているマインドという心である
このマインドが夢眠の時の状態であり、覚醒時(日中)の状態である
そしてこれが無知である


その無知が、自他の分離というマインドが
それらの恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我を対象として観察してしまっている
それ自身であるその恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我とはそれを「対象として見ている私」そのものであり
実際の事を言えば全く分離していないのである



「私という観念」によって観察されているところの、その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我である
心こそ
対象として分離して見ている私という「分離して対象として観察している私」
そのものなのである
観ている私は、その私によってみられている私であるのである


だからこそ
それらの恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我を
見ている自分とは異なっているマインドと思ってしまうのである

マインドがマインドを見ているのであり
「私という観念」が「私という観念」を自ら分離して見ているのである


もし
純粋意識が見ているのであるなら
そこには愛しか見えないであろうから
なぜならそこに分離がないからである
だからこそ、思考を思考で見るのではなくて
意識で意識を見なさいと言われているのである




その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我とはそれを自分の内部として
自分の心の内として捉えている「私」こそが


すなわち、その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我を
見ている私、そのものなのに


その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我である心を対象として見ている私は
その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我である私なのであるにもかかわらず
主体と客体が分離してると思考している
なぜならば、それは思考であり、意識ではないからである
それが思考の特色、マインドの特性である




それをクリシュナムルティーのようにうまく言うと
「見るものは見られるものである」であり
「観察者は観察されるものである」となる


恐怖を見ているのではなくて
恐怖それ自体が、二元の分離である心なので
自らを見る側の主体として想定してしまい、
もう一方では
自らを見られる側の対象に分離してしまったのである
これが
思考自体のトリックであり、心である二元分離の無知なのである
恐怖が自らを恐怖として観察し、自分である恐怖から解放されたいと願っている




が、けれども
実際は
見る者は見られるものであり
見られるものは見る者である
それこそが
思考ではない「意識」の「正しく見ること」である


思考とは
無知というマインドが陥っている錯覚なのである


従って
恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我を観ている私は
見られている
恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我である


それゆえに
その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我を対象化せず
その中に、入っていくことである
自らが
その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我であることを
理解し
その中に、その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我自身として入っていくことである


そして
そのとき、そこには
その恐怖・不安・イライラ・軽蔑・自我はなく
あるがままがあるがままにあることだろう
といわれる

それこそ
私とあなた
わたしとそれ、という分離のない
知恵の木の実というリンゴを食べる以前のアダムに
戻ったと言うことであろう
意識という非二元のあるがままに帰還したと言うことなのであろう






【2011/03/06 07:30】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する