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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
一体どの私か
私、私と言っているが
一体どの私の事か?

私、私と言っても、
「実感として他人を自分ではないと思っている私」とは
私ではなくて、それは低次マインドである思考だ



その私とは低次マインド・思考が生み出した私であり、
低次マインド・思考自体の姿である



低次マインド・思考とは「他とは分離している私という意識」そのものであり、
その実感であるからだ



そしてそのマインドの私とは神の演技である、
マインドは神のからだであり、
マインドとは神の一部の働きであるし
マインドとは神の演技であり映像だ


それゆえに魂にもマインドがあるのだ
魂は神の分け御霊だからだ


そうして
このマインドの自分が集まったのが、あの集合意識の私だ


しかし、その魂ではないマインドの私
「分離しか感じられない思考であるわたし」


それは全くもって私ではない



本当の神聖なる真実の私は
あらゆる所にあり
私のいないところはなく
私のいないときはなく
私は全ての次元と、全ての空間に遍在し実在している
私があらゆる人とあらゆるものとなって行為している
それが私だ



多くの、段階の私も、あなたも、ひとつの神聖なる真実の私である


私とは「分離した個人を実感している私」ではない
聖なる真実の私とは、その様な「私ではない私」を包摂している私だ


私ではない私を、私だと思うことは止めようではないか

と、教えられている



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【2010/09/19 07:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自己感覚はプロセスの結果である
何故、思うのだろうか?
何故、そのように思うのだろうか?



私が思っていることとは、本当に私が、思っているのだろうか?
それとも私が思っているのではなくて
(この二元性の領域では)
思いというものの中に、必ず「主体というもの」が生じてしまうように
既に組み込まれているので



私達は私が思っているのだと信じてしまうけれども
事実に於いては
思いが起こっているだけであり、それを
私が思っている
と、そのように認識されているだけなのではないか?



思いとは私がしているのではなくて
「思い」そのものが、思っている私を内包しているがゆえに、
「自分が思っている」のだと錯覚してしまうのではないか



見ることや感じる事や、欲望も同じであり
この五感の知覚は、全てに於いて
「見ている主体」即ち分離した虚構の私を
その五感と知覚や思考でもって、生み出してしまう



この二元性の世界では、そのように
見る事ということが、「私」という分離した主体感覚を生み出している
考えること、思うということが「私」という分離している主体感覚を生み出し続けている
欲すると云うことが「私」という分離している主体感覚を生み出している
感じると云うことが「私」という分離している主体感覚を生み出している


そしてその「私」という主体感覚は、凝固してみずからが「私」だという意識を持つようになる
そして更にその「私意識」は記憶として、働き始める・・これはPCのメモリーの働きと同じだ
それが自我だ



この分離している二元の世界では
ただ単純に、見る、思う、欲する、感じるということが
条件付けに基づいて、条件付けられているように起こっているだけなのに


「私が見る」、「私が思う」、「私が欲する」、「私が感じる」と云った具合に
主体という私の感覚が必然的にシステム上、発生してしまうのである


実際には
私が見ているのではなくて、見ることだけが起こっているだけであり、この私とはシステムが引き起こしている偽の感覚である


私が見ているのではない
ただ単に、見ている事が起こっているのであり、
「私」という実体があって見ているわけではない



同じように
私が考えていたり、私が欲しているのではない
頭脳と神経との複雑な過程を経て考えが起こっており、
欲すると云うことが起こっているだけであって
「私」が考えていたり、「私」が欲しているわけではない



行為に関しても同じである
行為するというような、このような複雑な神経筋肉組織の連携を
必要とする一糸乱れぬ組織的な高度な活動をするためには
超知性を必要としている。


人間が造ったロボットでさえ製作者のご苦労を考えれば直ぐに分かる事だろう
行為とはこの複雑な仕組みを完全にコントロールしているが故に
行われている事柄であり実は超高度の超知性によって起こっているのではないか

私が行為する直前に、その行為をするように既に神経、筋肉組織は連携を確立しているのであり
それから後に、そのことが「分離している自己意識」にフィードバックして
行為する意志が生まれているのを
私達は知らずに自分が自らの意志で行為していると信じ込んでいるのではないか






それは先ほどの五感や思考過程の仕組みと同じく
自動的に自分が行為していると思ってしまうように、
思わされるようにプログラムされているのではないか



魚や蟻や鳥たちの事を見れば直ぐに分かる
きっと魚や蟻や鳥たちは自分が行為していると思っているだろうが
魚や蟻や鳥たちは彼らの条件付けに従って、条件付けられているように動いているだけであり
魚や蟻や鳥はそれを自分の自由意志で動いていると錯覚することであろう


魚や蟻や鳥たちより更に再に高度で魂が入っている器の私達も
行為に、見る事に、思っていることに、欲することに関しては同じように
脳によって条件付けられており
脳によってコントロールされている
実はこの私は、それら行為、知覚、欲望、感情に介在していない



それらは起こっている



実際には主体という
行為者も、思考者も、欲望している私も、知覚している私も、観察者もいないのではないか


それらは、このシステムが造りだした偽の存在である。



私という分離している自己意識はシステムの造りだした嘘の存在であり
実体でもなく、存在でもない



行為者ではなく行為が、思考者ではなく思考が、欲している私ではなくてその欲望が、観察者ではなくて
その観察が起こっているだけなのだ



知覚者、認識者、観察者、行為者であるこの分離している私は虚構なのである、単なるシステムが生み出したものの記憶なのである
この「分離している私」とは、マインドシステムが生み出した結果でしかない・・・



それゆえに
その私、この私は、決して、私ではない。本当の私ではない!!



・・・・・これを久保栄治は
現実の直の認識で話しているわけではない
あくまで、そう思索しているだけである

この認識が実際の肌で感じている認識=直覚であるのなら



その時には
それを認識している私、自我、観察者、行為者は此処にはいないことであろう



そしてそこには
それを直視している内奥の私
分離していない私、本当の私、即ち全体であり、全てである未知なる私が現前していることだろう

【2010/09/15 15:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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