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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
脳はPC
書込
ありがとうございます

最近、或る出来事があり、
ある出会いがありまして
考え方が微妙に変わってきました

今までクリシュナムルティーの影響で
真の私への接近を
否定的接近と肯定的接近の二つに分けて考えていたのですが
そうではなくて、その否定的や肯定的と言うこと自体が意味を
なさなくなるような全く違う地平を教えられたのです


クリシュナムルティーを学んでいる殆どの方は
間違って自己を自我に限定して自己観察していますが、
その観察されている自己とは、
「私だ」と叫んでいても
その私とは魂の私や現在のパーソナリティーの私ではない
思考や記憶の反応や
「外部からの思考」であり、
さらに記憶が「外部からの思考」に反応し
記憶になっていきますがそれは
自由意志を持っている魂でもなく
魂の一部である現在のパーソナリティーでもありません




けれども
クリシュナムルティーが語りかけているあなたとは「記憶の反応の私」ではなくて
「魂の私」のほうです、現在のパーソナリティーの私にです



「脳で起こっている思考」と「魂の私の純粋思考・意識」を仕訳する必要が有ります



素晴らしいけれども条件付けられている受信器でもあり、送信器でもあり、パソコンである頭脳とに結びついたのが「魂の私」であり



それと同時に、
その魂の一部が、松果体から前頭葉と脳下垂体を中心した部位に届いて
機能しているのが
「意識である魂が肉体の目を持って対象を分離して見始めた」魂の一部分
その魂の一部分を現在のパーソナリティーと言います



現在のパーソナリティーとはエレメンタルや記憶の反応という人格や個人ではなくて魂の一部です
現在のパーソナリティーとは魂だともいえます
現在のパーソナリティーの状態がアストラル体とメンタル体の状態即ちサイコ・ノエティック体の状態です




私達の脳にある現在意識とは
・魂自身の意識一部と
・魂からの私である現在のパーソナリティーと、
・この現在のパーソナリティーの私が脳と接触した結果生まれた人格、個人・自我と
・過去の人格群(ワサナの反応)と
・想念帯からの思考感情を受信しているもの
とが混合している状態です


クリシュナムルティーが語りかけているのは
どの私にたいしてでしょうか

クリシュナムルティーは私達に真実を語りかけるのです
真理を伝えようとしているのです
それは、私達が単なる記憶の反応だけではなくて、魂の私
現在のパーソナリティーだからこそ語りかけているわけです
(この魂の私と人格が混合している状態だからこそ
自由意志のない記憶の反応に対してではなくて
自由意志のある魂の私にラマナ・マハリシもクリシュナムルティーも語りかけているのです)


(この現在のパーソナリティーとは高次元の異なる意識・魂がこの次元の脳に降下して発生したものです)
(また、この脳と魂の結びつきには数年の年月が必要です、人格や個人とは異なっています)



「前頭葉と脳下垂体を中心した部位にある」現在意識の座というパソコン中枢部に
結びついたところの「魂たる私の意識」が
パソコンと、そのパソコンの思考、その記憶、そして記憶の反応を自分だと錯覚したわけです



私・魂がパソコンを動かしているのに
余りにも「大天使・大聖霊」が造ったパソコンが素晴らしくて
しっかりと魂と脳が浸透し合い結びついているのでパソコンを自分だと思い込んでしまったわけなのです



それは魂の一部である現在の私が
脳内でのインターネットのような仕組みでやってきている映像や思考や感情や記憶の反応を見て聞いて
「自分・魂」の思考や感情だと思い込んだのです


けれども「自分・魂」はパソコンではなかったわけです
ではこのPCを動かしている私とは誰でしょうか?


私とは勿論、魂の私です、現在のパーソナリティーです



この魂の内奥に真の私があると言われます
魂又は永遠のパーソナリティーは全体である真の私に繋がっていると教えられています



にもかかわらず
クリシュナムルティーを学んでいた私は
PCを自分だと思ってしまい
PCと接触の結果発生した「思考・記憶の私」人格、個人を私だと思って自己観察をしていました



なぜなら思考や記憶は二元性であり主体・私という概念で成り立っているからです



そのPCとは自己でも何でもなく、その映像とその思考と記憶の反応とはPCのものだったのです。私ではなかったのです


ただこの「前頭葉と脳下垂体を中心した部位にある現在意識」の座には
あまりにも多くの思考や記憶や記憶の衝動や反応が起こっており
脳はあらゆる思考や感情を拾ってきています
そして、魂自身も条件付けられている脳という二元性の領域に降下しているので
仕訳が付けにくくなっているのです




さて、この現在の私の「この思い」とは
「自分(魂)である意識」の「この思い」なのか
人格や個人や自我の「この思い」なのか
それとも
トランス状態になって脳内麻薬やある意識体が憑依した結果の「この思い」なのか


区別がつきにくくなっているわけです




そういうわけなので
現在意識の座で
魂の部分である現在のパーソナリティーが
「仕分け作業」をしないと



魂の私の純粋思考と、この「前頭葉と脳下垂体を中心した部位にある現在意識の座」に起こっている記憶からの思考とをごちゃ混ぜにしてしまう危険性があります


ミルダッドは、この魂の私と現在のパーソナリティーに話しかけているし
クリシュナムルティーもこの魂の私である現在のパーソナリティーに語りかけていたわけです


ともかく
「仕訳作業」は肝要です
現在意識には
魂からの現在のパーソナリティーの意識と
条件付けられた頭脳に起こっている記憶の反応の意識が混合しているからです


私は脳というPCではなくて
脳と結びついた「意識である魂」だからです




そしてこの私である魂が決定する態度とは
ラマナ・マハリシの言うように
脳に起こっている事に対する
「態度」のことだとおもわれます




脳に起こっている事とは
思考、感情、出来事、衝動、運命、認識、知覚、体験、自我、人格等々



そしてそれに対する態度とは
魂である私・現在のパーソナリティーの態度のことです



そしてこの魂である現在のパーソナリティーの正しい態度とは
とりもなおさず
内奥の真の私、真我と、そして魂の親である「神聖なる愛」に
感謝と真心を捧げる事ではないでしょうか












・・・と、そのように思うようになってきました




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【2010/08/28 08:47】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
自我⇔観察者・現在の私⇔観照者・魂⇔真の私
記憶の反応に悩まされ
起こっている事に対して敏感に反応し
ワサナの反応に振り回され
動物魂を自分だと思っている
肉体と肉体の反応を自分だと思っている



それが、
現在のパーソナリティー、観察者であり
この観察者という現在のパーソナリティーは
観察者によって観察されている情動や思考や欲望や恐怖に対して
常に逃避し、判断し、評価し、非難している
自分が自分を判断して、非難して、逃避している




観照者・魂とは
この観察者を判断せずに、あるがままに、一緒に悩み苦しみ
観察者を抱きしめ、非難せず、判断せず、全てを受容している
けれども
この観照者は未だ二元性であり「観察者は観察されるものだ」の状態である
そこには、まだ分離があり、見る者と見られるものの分離がある
観照者は観察者を対象として分離して認識している
観照者は、「私は在る」ではあるけれども非対象、非思考、非分離ではない
観照者は真の私ではない





真の私とは
「私は在る」ではなくて
「私は全てに在る」であり
見る者と見られるものは一つであり、見る者と見られるものの中の全てに神を見ている
見る者と見られるものはただ一つである
その状態が
ラーマクリシュナやラマナ・マハリシの非対象、非分離、非思考という
真の私の状態であり
神なる私が全てにあり
全てが神として一つであり、何処を見ても私しかおらず
すべてが神である
全てが私である
そして
その私とは神である



と、そういうことであろうか





【2010/08/18 07:31】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(5)
根源的なる幻想
分離・二元とは葛藤であり、悲惨である
それは闘争と相克と競争と戦争の原因でありそれらを生み出している



二元分離とは悲しみと苦しみ
「私とあなた」という分離
「私とそれ」との分離であり
恐怖と希望を生み出している
しかし希望も直ぐ後で絶望という本性を現す


分離二元は勿論、私という観念から生まれており

その私という観念から
~に到ることや
~を実現すると言うことが派生している

この私という実体とは勿論、それは根本的なる観念であり観念が凝集したものである



けれどもこの二元・分離とはよく見ると
それは本当の現実ではなくて、
心の中だけのことであり
観念だといえるのではないだろうか



この手や足や物質や頭脳や花や椅子や空や星は現実であり
それは、進歩した科学のお陰で、よく分かるように
全てが調和され、宇宙全体が一つの体として統一されている
全てはただ一つなるもので有り
決して、見る者と見られるもの
観察者と観察されるもの
経験者と経験されるものに分離されていない
これらの分離は「私という観念」から誕生している二元分離である



目を転じて「現象の現実」ということを見ても分かるように
全てが完全完璧に運行されており
この完全なる全体なる叡智が存在していなければ
この肉体も世界も宇宙も一瞬にして崩壊してしま
うことであろう


それは原子爆弾という原子核の崩壊を見ればよく分かることである
素粒子が原子と原子核を法則に基づき秩序を維持しているからである
この肉体も、この花も、この街も、この地球も、全体として
すべたがただ一つの体として機能している、実際は決して分離していないのである
宇宙はただ一つの体なのである
自は他であり、内は外であると


実際はこの物質界でさえ分離しておらず
この物質界の中のあらゆるもの・・・この人間でさえ
・・・分離してはいない、
私達は決して人間ではなく、個人ではなく、叡智によって誕生し、維持されている



表現を変えれば
人間である私達が生きているわけではなくて
神が生きており、
神しかいない、
神のみなのである



上にも下にも、右にも左にも、内にも外にも
神の中に、神だけが生きている
というのが本当の現実ではないだろうか
なぜなら「私だと主張している私」こそ神が生み出したものだからである
神の一部であるからである
この私とは頭脳と肉体が生み出した観念であり、その頭脳と肉体は神が
造ったもので有るからである



なのに
この「私の」「私が」という分離した二元の観念が全てを覆っている



おそらく本来の頭脳とは分離を生み出してはいないのであろう
が、しかし、この条件付けられている頭脳は
「私という観念」を惹起し、二元分離を生み出している


ラマナ・マハリシの言うように
「私という観念」は真我から生まれているのであろうか
それとも
この二元分離というものが何処からか現れて
この現象世界を覆ってしまったのであろうか


ラーマクリシュナは
母なる神が私達に幻術を掛けているのであり
それを、どけて下さるのも
母なる神の恩寵であると言われている



二元分離、「私とあなたという分離」は根源的な幻想であり
母なる神自らが見ておられる夢なのかもしれない・・・









それを知らないのは、この私という観念である
【2010/08/15 07:24】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
見られる者は見る者である
認識されている対象は認識している主体である
現在の私に認識されている対象である貴方とは
現在の自分である

この主体の現在のレベルの状態・中身は相手・対象として認識されるのである
嫌がらせをしたり、苦しめている相手は自分である



若しくは
自己によって認識される願望・欲望・思考・感情・衝動が自分である
自己によって認識されている願望・欲望・思考・感情・衝動が
認識している自己そのものである
そしてその自己とは意識ではなくて脳の条件付けの結果の思考である




自分が見ている相手であるその人とは自分の状態を表してる
自分の目の前にいるその人とは自分自身である
現在の自分にとっては
内にも外にも、現在の自分以外のものは認識できないからである
けれども
その「見るものは見られるものである」を見ている意識とは非分離の魂ではないか





そしてこの相手を自分ではないと思い、感じ、認識している
分離している私である現在の自分とは
人類全体を覆っている「私・観念」であり
その中身は
女・金・名誉であり
これが人類共通の脳の状態
条件付けられている脳の状態であり
自と他を分離して認識するように条件付けられている思考であり
その思考の記憶である



更にこの条件付けを細かく見れば



それは他を支配しようとすることであり、自分がボスになろうとすることである
ひとかどの者に成ろうとし
地球を支配し、宇宙を支配し
神のように自分がなろうとすることである
これが自我の本質である
これが自他の分離感を引き起こしているのである




この「私という観念」が非分離の魂の外部を覆っており
それが
この対象と、この対象を観察している主体になってしまっている
この観念が現在の自分の認識(目)を被っているのである


自分が対象として見ている、その相手の人とは自分の現在のパーソナリティーのレベルの状態であり
現在の私である



が、しかしその私・観察者とは「見るものは見られるものである」を理解している私ではない
意識の私ではない



意識である魂の私ならば「私は貴方だ」と言うことを実感しているからである




ミルダッドの言うように
私とは本当は貴方であり
私とあなたは分離していない




本当は「見るものは見られるものである」
なのに
それを自他が分離しているように見せているのは
「分離している私と言う観念」である




ミルダッドは言う
私とは貴方であり
愛とは私が貴方に吸収されてひとつになることだと
その時、それは
「見るものは見られるものである」の状態であり
内部は外部であり
自は他であると


そしてそれが
魂の内奥の純粋意識の意識であると


私が貴方に吸収されて一つになっていることが
「見るものは見られるものである」である事を理解している純粋意識であり
それが愛であり


その愛こそが真の私であると


【2010/08/04 07:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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