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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
ミルダッドのことば
ミハイル・ナイーミ「ミルダッドの書」より



「そう、人間は災厄を自分に招き寄せながら、自分が何時何処で、どのように招待状を書き送ったかをすっかり忘れ、苛立たしい客に対して抗議する。しかし、時間は忘れない」



「私はあなた方にいう、訪れた客に対して抗議しないようにしなさい」


「訪れた客を、その態度や振る舞いがどうであれ、親切にもてなしなさい。というのも、彼らは実際には貴方の債権者なのだから」



「不運な出来事をあたかも幸運な出来事であるかのように受け入れなさい。というのも不運な出来事は、一旦理解されると直ぐに幸運な出来事に変貌するのだから」



「その時間と場所と有り様をも貴方が選んだのである」



「〈時間〉と〈空間〉のうちに偶発事はない。いかなることにも間違わず、いかなるものをも見過ごさない〈全能の意志〉によってあらゆる出来事は定められている」



「貴方が生きていることを意識せずに生き、動いていることをあまりにも意識せずに動いているのと同じく、自分が意志していることをあまりにも意識せずに意志している。しかし〈全能の意志〉は、あなた方の無意識を意識しており、宇宙の全ての被造物の無意識をも意識している」



「それゆえに私はあなた方に向かってかって言ったし、今も言うのだ。いかに呼吸するのか、いかに喋るか、何を願い、何を思い、何を行うかに注意せよと。なぜなら貴方の意志は、一つ一つの息、一つ一つの言葉、一つ一つの願い、一つ一つの思い、一つ一つに行為の中にまでも隠されているからだ。そして貴方に隠されているものは〈全能の意志〉には常に露わだ。」



「万物への意識を成長させて始めてあなたは、自らの内にある万物の意志や、万物のうちにあるあなたの意志を意識できるようになる。万物の内にある貴方の意志と、貴方の内にある万物の意志を意識するようになって初めて、あなたは、〈全能の意志〉の神秘を知る事が出来る。そして〈全能の意志〉の神秘を知るまでは、自らの意志を〈全能の意志〉に反して立てないようにしなさい。」



「〈全能の意志〉を受け入れなさい。その神秘の鞄からあなたに降り注がれる事物を、ぶつぶつ言わずに全て受け入れなさい。感謝を持って、そしてそれらが〈全能の意志〉のうちで自らの正当で当然の取り分だという信念をもって、受け入れなさい。それらの価値と意味を理解しようとする意志をもって受け入れなさい」




「貴方の意志を〈全能の意志〉の僕にしておきなさい」



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【2010/06/27 20:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自己の統合
自己の統合、それは正確には真の私への吸収統合だろう


私達が自己観察をしているという場合
この自己観察の中で
多くの私・自己というものを観察しているという事であり
それは即ち
分離二元状態に陥ってしまっているということである


それは
統合一元状態ではない、ということを示している


それは自己が分裂している状態である



多くの次元の自己が、また多くの異なったレベルの自己がいることを認識し
多くの段階の自己に分割されていることを自覚し、そのことを認識し
また
これらの自己というものを自己観察していると言うこと



その自己の観察自体が
その観察している主体とは統合されていない分裂した自己であることを証明している


自己と言うものが多くあって、又は自己が自我であることを見て
この私とは分離分割状態であることを見て認識しているということ、
それを認識している私とは真の私=魂の私の目の状態ではないことを示している訳なのである



私・自己というものが
真我⇒真の私⇒魂・観照者⇒現在のパーソナリティー⇒自我・ワサナ記憶とその記憶の反応
とそのように認識されたり、見られたり

このような状態を実感しているとき


それは、私の分離分割状態であり
このように自己を観察して、認識していること自体が
その観察し認識している私と言うものが
それは魂・観照者の状態の私ではないことを示している



もし魂・観照者の私の意識状態であるのなら

この自分である愛以外に何も見えていないはずだからだ
愛には愛しか見えないはずだからである
(見ている私が愛であるからだ)
この愛を見ている意識状態での自己観察ということの中では
おそらく自我を見ているところの私である自我もなく
(見ている自我はもはや見られることなく)
この自我によって見られている自我もそこにはないことだろう


見ている、観察している主体が真の私に吸収統合されているからである
現在のパーソナリティーが魂の内奥に吸収統合されているからである



若し自己が統合されて一つの私になっているのなら
真の私に(そして魂・観照者に)個我である現在のパーソナリティーは吸収されているだろうから
記憶は浄化され、自我もワサナも愛によって浄化・変換されていることだろう

そしてその時
コーザル体もアストラル体もメンタル体もエーテル複体も肉体も魂によって再調整されており、
魂と整列していることだろう


そしてその時
その統合され真の私に吸収され一体となった現在のパーソナリティーの目には

愛しか見あたらないことだろう
悪が見えないことであろう
おそらく真我しか見えないことだろう
何処を見渡しても、全てが新しく、全てが感動であることだろう


そしてそれらを≪対象だと分離して見ている私≫が何処にもいないことであろう
それが
正しい自己観察状態であることであろう


真の私に統合されているからである




【2010/06/22 07:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
エレメンタル(想念形態)
私達が思ったり考えたりすることはエレメンタルという想念形態を創
りあげてしまうことになるので、非常に慎重であるべきである


その造られたエレメンタルは同じ波長のエレメンタルを仲間として
呼び集らせ、より強大なる自意識を持つようになる


だから、思ったり、感じたり、願ったりすることはこの現象世界では
とても重要なのである


普段は愛のかけらもない人で、思いやりのない人がいて「我は
なり」と思ったとしよう、そう念じたとしよう
するとどうなるであろうか



「我は神である」と思っている(愛が無く、思いやりのない)そ
の人と全く同じのエレメンタル・意識存在が自意識を持って
生まれ、
そして同じような想念形態である意識存在達が集まってきて、
分離感に覆われた愛のない思いやりのない「私は神である」と思
っているエレメンタルが生まれ育ってしまうのである



では、その対極である傾向を持つ人がひとがいて
自己観察と称し、「私には愛が無く、この自我とは私ではな
い」と必死に思い込み
自他と分離した実感を持っているにもかかわらず
全く私とは貴方であるというレベルまで往っていない、現在意
識の個人が
そのように「私には愛が無く、この自我とは私ではない」とそのよ
うに必死に思い込み、念じたとしよう


するとその人はやはり同じように「私には愛が無く、この自我とは
私ではない」というエレメンタルを生み出してしまい
「私には愛が無く、この自我とは私ではない」と思っているエレメン
タルをつくり、そのように思い込んでいる自我意識があり自意識を
もつエレメンタルを生み出してしまうのである



「私は肉体でもなく、思考でもなく、私は概念である、私は存在して
いない、私は愛である」と思っている自己意識が充満している想念形態
自我丸出しのエレメンタルが生み出されるのである




真の私や真の魂とは勿論、エレメンタルや想念形態ではないので
私達が常日頃、造りだしているエレメンタルや想念形態は
なるべくこの真の私や真の魂に近いものが良いに決まっている



では正しいエレメンタルとは何だろうか
それは、何だろうか



私が思うに
それは「私」という想念を含まないで高い波長を出している
エレメンタルである
それこそが
愛・感謝・真心・思いやり・喜び・慈しみ・調和などという
エレメンタルであろう



けれども、ここで注意すべきは
私が愛するや、私が感謝するではなくて
ただただ愛であり、ただただ感謝であり、ただただ有り難い
であり
厳密に言えば私を含まない純粋な聖なる愛であり
私は感謝するではなくて、私を含まないただただ有り難い・・
有り難い・・という
純粋で聖なる感謝である


これらの思考や感情は正しいエレメンタルとして、この現象世界に
於いては有効に働き、美しい実を結んでいく


が、しかし此処に留まることなく、
私達は更なる真実を発見していきたい


私達とはこの色んなエレメンタルを生み出している私なのか?


この現在意識であり、思考し、欲し願っている私が私であるのか?



この私、エレメンタルを生み出している私とは誰なのか?



そしてこの私
このエレメンタルを生み出している「私」を投影している
真の魂、観照者であり永遠のパーソナリティーといわれる「私」
とは誰か?



エレメンタルや想念形態ではなく
肉体やエーテル複体でもサイコ・ノエティック体でもない
真実の魂の私とは誰か?



そして更に
その真実の魂の内奥であるところの
時間と空間を超えて、宇宙に拡がり
あらゆるものと一つであり、自他の分離のない
純粋な意識であり、至高の愛であり、純粋なる叡智である「貴方
である私」とは?



賢人によって「真の私」「真我」と呼ばれている本当の私とは?
(その真の私とは現在のパーソナリティーの体験や知覚や認識
の領域にはないのだ!)



この真の私、真我があるからこそ、この最下層のエレメンタルも支えられている
この真我、真の私がもし、存在していなかったらこの偽の私も現在のパーソナリティーも
一瞬といえども存在することは出来ない


全ての現象はこの真の私の中で生まれそして滅していると
聖者方は言われている
そして
この現在のパーソナリティーである現在意識の私が、そのことを信じようと信じまいと
否定しようと肯定しようと、拒絶しようと受容しようと、考えようと考えまいと


真実は、如何なる段階の私が「自分は個人だ!」と叫び「私は分離している!」と
絶叫しても、この真我の中から、本当の私の中から、愛の中からは一歩も外にはみ出すことはない
、と








【2010/06/06 07:19】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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