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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
逆である
私が苦しんでいるのではない!!


逆である!!
その苦しみが、その苦しみの心が、この苦しんでいる私というものを生み出したのである
その苦しみは私それ自体であり、苦しみが私と言う苦しんでいる人を生み出して私は苦しんでいるというのである
その苦しみの一部がその苦みを苦しんでいる私なのである


私が苦しんで、色々と心配して悩み思考しているのではなくて
その「色々な苦しみと心配」という思考が苦しむ私を生み出しているのだ・・・


私が苦しんでいる、私が思考を観察している・・それは逆なのである
苦しみが苦しんでいる私を作りだし、思考が「思考を観察する私」を生んだのである



その心配とその不安というマインドがその不安を抱きその心配している私を生み出しているのである
マインドのトリックに引っ掛かっているのだ



出来事が私に起きているのではない!!
出来事が私を生み出しているのである!!


私が認識しているのではなく
認識が私を生み出したのである


出来事それ自体が、その出来事を体験し知覚している私であり、
その出来事を観察し、体験している私を生み出したのに


それにも関わらず
逆に
私は体験しているのだ、私はその出来事に遭遇しているのだというのである


「私の肉体」「私の身体」であるではなく肉体が「私の肉体だという私」を作ったのである


私が行為しているのではなくて、行為が「行為していると思っている私」を作っているのである


私が知覚しているのではなく、知覚が知覚している私を作っているのである



そしてその出来事を受け入れたり
その出来事から逃げようとしたり
その出来事を何とか変えようとしたりしているけれど

それは逆であって


その出来事自体がそれに巻き込まれている私を生み出しているのである




私がマインドを観察しているのではない!!
観察されているマインドが「観察している私」を生み出したのである



その観察されているマインドが観察している私を生み出しているのであって
私がマインドを観察して
その思考は良くないとか、思考から逃れようとしたり、思考にレッテルを貼ったり
私がマインドを変えようとしたり、私が思考を観察したりしているのである



けれども、それは全くの逆であり
その思考を観察している私は、観察されている思考が生み出したものであり
観察されている思考は観察している私なのである


とそのように言われているのが
クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」であり
そう言うことを指しているのではないだろうか


マインドが即ちそのマインドを見ている観察者という私である・・と言うことだろう


マインドとは外界と内界であり、その外界と内界を認識し体験し、知覚し
なんとか良くなろうと藻掻き、巻き込まれまいとし、改善しようとし、神に祈り、瞑想し
何とか内と外を良くして、進歩しようとする私、自我、霊魂を生み出したのである
その私、自我、霊魂とはマインドの結果であり、マインドが作った結果なのである



私がマインドを観察し、マインドから超越するのではない
そのマインドを変えよう、マインドから超越しようとしている者こそマインドなのである



嫌な親爺や上司に対する自分の内面を観察して
愛深くならねば、観照者である私自身であらねばと思おうとしているこの自我こそ
その嫌な親爺と上司と憎むべき相手が生み出した私なのである
私が嫌な親爺と上司なのである


愛深くなろう、思いやりのある自分になろうとしている私こそ
その憎んでいる敵や相手が生み出した結果なのである



対象が主体であり
対象であるマインドが主体である自己と言う私を生んだのである
対象を見ている主体の私とは対象の結果であり、対象が生み出したものである
対象と主体は分離していない
というより
主体は対象が生み出しているものである
対象の中に主体は含まれている
即ち
主体は対象であると言うことなのではないだろうか



私がマインドを見ているのではなく
マインドが生み出しているもの、それが私なのだ



逆である






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【2010/03/26 08:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(5)
ロボットとの対比
この現在の意識し、意識されているわたしである「私・分離している自己感覚の実体」

すなわち
通常、自我とか、現在のパーソナリティーとか、人格とか言われている私とは

分離している私のことであり、この「私・個人の自己」のことを指しているといえる


この現在の知覚し、知覚されている私である「私・分離している自己感覚の実体」とは、言うなれば

最高度の根源ロボット(肉体精神機構)を経由したマインド・思考から生み出された記憶体のこと
ではないだろうか


この「私・分離している自己感覚の実体」とは
この根源ロボットから抽出された記憶のことであり

このロボットが受信し、頭脳に起こっている思考、感情、感覚、知覚、記憶、その機能の記憶を
自分のもの(自分だ)と思い込んでいる主体だ

それはこの記憶体がこのロボットで発生している感覚や知覚や認識や記憶や機能を自分の感覚、自分の知覚
自分の記憶、自分の認識、自分の機能だと思い込んでいるのだということだろう


現在の私であり「私・分離している自己感覚の実体」が間違って
・・自分自身だと思ってしまっている「最高度の素晴らしい根源のこのロボット」に受信されているのはマインドであって、マインドこそ根源が上映している映画のフィルムではないか・・それがマインドである

このロボットが受信しているマインドとは根源からやってきているものであり
起こっているものである、聖なる催眠である
それは根源によって脳に送られている聖なる幻覚である


その根源によって起こっているものを
根源ロボットである脳の条件付けによって受け取った結果生じた記憶(思考)が自己意識を持ち
始め


認識機能を持ち
知覚機能を持ち
思考機能を持ち
記憶機能を持ち
根源から起こっているこの怒りやイライラや苦しみや快楽や恐怖や不安に対して反応して
将来を案じ、過去を悔やんでいる、なんとかしようと躍起になっている

そしてまた生殖機能と行動・行為機能を持ち、生命を付与されている根源ロボットを自分のものだと思っている



けれどもこの根源ロボットにやってきたマインドの「思考の結果」である「記憶体」とは
脳の条件付けを経由しているので「脳の条件付けの結果」であり、根源が生み出したロボットではない


この根源ロボットは
どんなに現代の科学が挑戦しても
このような完璧であるロボットは決して創り出されることはないし
今後も不可能だろう

なぜなら
この根源の製作したロボット自体が
根源のマインドによって動かされ、考えさせられ、喜んだり、怒ったり、欲するようにコントロール
されているからである


それに比して
この「私・分離している自己感覚の実体」とは
この根源ロボットの記憶であり、記憶の凝固した記憶体であり
その記憶の集合体だ



けれども、これもまたロボットと同じく根源によって創造されたものだ




がしかし、この記憶体や集合記憶には「根源のロボット」のようにいのちを付与されないし、いのちを創り出せない

なぜなら私達自身、私達そのものこそが
聖なる根源が動かしているロボットを経由した思考の記憶体だからだ
それが「私・分離している自己感覚の実体」であるといえる


この根源が創ったロボットと
人間の製作したロボットとの決定的に違うところは
この根源が作ったロボット自体が根源が上演している指人形劇の指人形の一人だということだ
この指人形であるロボットは根源が劇を進行するために使用しているのである
この指人形を偽我と言い自我とは区別している


けれども、このロボットと自己同一化した「私・分離している自己感覚の実体」の特徴は


ロボットに起こっている事を


自分の運命だと思っている
自分のカルマが原因で起こっている出来事だと思っている
(自分が行為していると錯覚したからロボットの運命に巻き込まれているだけなのに)
自分が感じているのだとおもっている
自分が思考・マインド・感情・欲望・出来事(これは起こっているのに)を変えることが出来ると思っている
自分が思っているのだと思っている
自分が行い、行為し、為しているのだと思っている
自分が努力して自分や環境や出来事を変えることが出来ると思っている
自分が不安を抱いているのだと思っている
自分が恐れているのだとおもっている
自分が憎んだとおもっている
自分が将来のことへ関与したり、未来を変えることが出来ると思っている
(過去も未来も既に起こってしまっているのに)
自分が起ってることに参加することが出来ると思っている
自分が良くなったり、悟ったり、解放されたり、自由になったりすることができると思っている
自分が願ったり、欲望したり、選択したりしているとだ思っている
けれども
それは自分ではなくて
この根源ロボットに起こっていることであり
聖なる出来事である、聖なる錯覚である、映画である、あるがままである


けれどもこの聖なる出来事である「あるがまま」を私・自我は見る事が出来ない
その聖なる起こっている「あるがまま」のことを記憶である「私・分離している自己感覚の実体」は
正確に観照することが出来ない、「私・個人の自己」自身が起こっている事の一部だからだ



その起こっているマインドはロボットの条件付けられた頭脳を通じて
「私・分離している自己感覚の実体」という自我を生み出し
その自我はからなず、そのように「私が行為している」というように錯覚するように作られている


その生み出された錯覚こそが自我・自己であり
自他の分離であり
時間空間の認識であり
内部と外部の分離である
そして、それには起こっている「あるがまま」を決して正しく見ることが出来ないようになっている


「私・分離している自己感覚の実体」という感覚を持つような自我が創られたからである

そう言うことであるから
自分が瞑想している
自分が全託している
自分が観照している
自分の人生だ
自分の生命だと
自分の私だと

そのように思い込んで錯覚することが出来るほど完璧に自我は作られている
根源ロボットの条件付けられている頭脳を経由して・・・


しかし、この自我という「「私・個人の自己」が誤って
自己同一化してしまっている根源ロボットは、実は素晴らしいものである
被造物である人間が作ったロボットは壊れたり、狂うこともあるし、故障して勝手に動き回ることもあるけど
根源の創造したこの「私・個人の自己」が共生しているロボットは完全である
(障害があっても完全である)


というのも
根源自身がこのロボットを通じて生きているのであって
ロボットと言うよりは根源自身がこのロボットを使って演じているからだ
神が私達を使って生きている
と云った方がより正確なのではないだろうか
色んな個性や色んな才能や、時には障害をもって演じられている

そしてその根源がロボットを通じて演じているのを自分が演じていると錯覚しているのが
このロボットの条件付けを通じて生み出された「私・個人の自己」である
輪廻転生はこのロボットと、このロボットを自分と錯覚した「私・個人の自己」によって
なり立っていると思われる


この肉体精神機構である根源のロボットとは根源が演じている登場人物であることだろう

この自我である私、「私・分離している自己感覚の実体」は
この自我である私、「私・分離している自己感覚の実体」が作ったのではない


まして
作られた被創造物である私(「私・分離している自己感覚の実体」)が生きて、行為して
機能しているのでもない。この「私・分離している自己感覚の実体」は記憶体なのだ


根源がロボットを生み出して演技しているように
もう一方で根源はマインドを使って自分が生きて行為しているという錯覚を生み出したのだ
「私・分離している自己感覚の実体」を使って・・・・



この自我である「私・分離している自己感覚の実体」とは
根源によって演じられている登場人物(ロボット)そのものに実在性を与えるために
同じ根源によって創作された霊魂ともいえる


カルキの言うように
行為はこの「私・個人の自己」がしているのではなく、根源が為している
しかも「私・個人の自己」を使ってこの個人が為しているように思わせているだけだと


思うことも、考えることも、欲することも、感じる事も、行うことと同じく
「私・個人の自己」がしているのではなくて、根源がしているのにも拘わらず
この「私・個人の自己」を使って「私・個人の自己」が行為しているように感じ思わせていると


この「私・個人の自己」とは聖なる錯覚を生み出している根源の媒体(道具)であって真の私ではない
この「私・個人の自己」とは私ではなく根源が使用している観念であって私ではない
この「私・個人の自己」とは根源が聖なる錯覚の上演劇に出演している単なる演者であって私ではない
この「私・個人の自己」とはこの神のリーラという錯覚劇のひとつの構成要素として輪廻転生させられている
「私という分離した自己感覚を持った霊魂」であって、私ではない


本当の私は今此処に在って

行為せず、思考せず、感ぜず、欲せず、なろうとせず、判断せず、願わず、計画せず、知覚せず
認識せず、体験せず、善悪の判断をせず、逃避せず、評価せず、何かになろうとせず、求めず、悟ろうとせず


このように言う
私は肉体ではない、私は思考ではない、私は感情ではない、私は行為ではない、私は知覚ではない
私はマインドではない、私は時間ではない、私は主体でも客体でもない、私は個人ではない
私は輪廻転生している霊魂ではない
私は人格でもなく、個別の霊魂でもなく、万物と分離することはできない
私は知覚や思考や言葉や概念やマインド・心ではなく
意識として、眠りを見ている気づきとして
聖なる叡智と、聖なる愛と、聖なる実在として、今此処に在る
と仰っている


そのように
ラマナ・マハリシやラメッシ・バルセカールやニサルガダッタ・マハラジは言っているのではないだろうか



【2010/03/17 11:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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