FC2ブログ
気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
私は自分を憎んでいる
私は自分を憎んでいる
だから
良くなろうとする、なんとかして変わろうとしている



私はこの自分を避けている、無視し逃げようとしている
この自分から避けようとしているものも、全く同一の自分であるにも関わらず自分から逃げようとしている

自分自身が自分自身から逃げようとしている




私は自分を非難している
何故非難する前に、自分自身であるのだからこの自分を黙って抱きしめてやらないのか
この自分の言うことを聞いてやらないのか、耳を傾けないのか



私は悩み、哀しみ、苦しみ、欲望を抱き、恐怖に怯え、将来を案じ、自他を軽蔑し、自他を憎しんでいる
これが私であり
この私こそがあるがままの私である
このあるがままの私を見ている観察者は何処か別に存在しているわけではなくて
この私を観察している私こそが、この観察されている私の一部分なのである



だから
この暴力で憎悪の私こそが私であり、その憎悪の私が(欲望の私が)観察者の振りをしているだけである



だから
この私を見ている私・観察者は、見られている恐怖の私が、分離して観察している振りをしているだけだ




そして
この自分を観察しているあるがままの私が、観察されているあるがままの私から逃げようとしている、良くなろう、愛深くなろう、悟ろうとしている
これは自己矛盾である、嘘である、自己欺瞞である



このあるがままの私を非難して、私ではないとか言ったりしている
これは分裂状態であり、自己欺瞞である、此処には救いがない、正義がない、自分が自分に騙されている、分離状態である




この怖れ、哀しみ、不安に怯え、愛が全く存在していない狂気のあるがままの私をあるがままに受け入れよう
この狂っている私が、私なのである
この私から逃避しようとしている私こそあるがままの私なのだ


この自己欺瞞、この嘘・虚構から離れてあるがままの自分を受け入れよう
この狂気の自分が自分だったのだ



私とはあるがままのこの狂気であり、この憎悪であり、この欲望であり、不安である
私は逃避しない
私は非難しない
私は自分を変えようとしない
私は自分を非難し、変えようとし、良くなろうとして、逃げようとしているこの私自身であるから、
この二つの自分は同じ狂気の私である
観察者は観察されるものである




私は何処にも行かない
黙って
このあるがままの私をあるがままに抱きしめる・・・強く、強く・・・



私は見られている私なのだから









スポンサーサイト



【2009/05/26 08:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
知覚は誰がしているのか
知覚はどうして起きているのか
知覚はどのようにして発生しているのか
知覚はなぜ主体である「私と言う分離した自己意識」を発生させているのか




主客転倒である



私が知覚しているのではなく



絶対的なる超叡智によって
頭脳がしかるべくニューロンやシナプスやその他の精妙な動きを起動し、それによって生み出された知覚が私と言う「主客転倒」している記憶を生み出して
その知覚を成立させているのだ





それによって、この私と称する自己感覚がうみだされたのだ
「知覚が生み出した記憶である主体」を発生させられ維持させられ
死後まで存続させて、
それが自己意識を持って「自分が生きている」と想うように仕組まれて
輪廻転生を廻していると思わされているのである




その現象界を廻している絶対なる叡智であるものは
完全なる天体の運行や、宇宙の秩序をそして野に咲く花の一輪さえも生みだし
誕生させ維持しそして消滅させる
それは完全であり、完璧であり、この造られた記憶の自我をもコントロールしている
そしてこの全体の一部である肉体脳や幽体脳やエーテル体やサイコノエティック体や黄金の霊体を
そしてチャクラやクンダリーニや更に自我や魂さえも生み出して
頭脳を通じてマインドを使って



現象界を写しだしているのだ




肉体だけの頭脳を考えても、これは凄い!!!!
自我やスーパーコンピューターや人智では全く勝負にならない
この自我やスパーコンピューターや人智をコントロールし生じさせそして滅しさせているからである

健康や病気や脳血栓や脳腫瘍さえも生みだし、何もない精子から誕生させそして老衰で終焉させる
・・・・・これが完璧な自律性のある超叡智である


本当はこの超叡智しかいないのである「私」などこの超叡智の結果物なのだ




その超叡智が頭脳のごく一部分を使用してこの自我を生みだし、「行為している私」と言う錯覚を
生みだし現象界を維持させているのだ

実際は私などいないのである


この自我や私や高我などはこの頭脳が生み出したごく一部の結果なのだ


それなのに主客転倒して「私がこの肉体の主であり頭脳の主人だ」と思い込んでいる様は何とも言えず滑稽至極であり、悲しいことである

この肉体もチャクラもクンダリーニも頭脳も完全完璧な超叡智の一部分である




そしてこの私とはその超叡智である頭脳の一部である記憶でしかに、すぎないのである



そしてその頭脳が或るプログラムと条件付けに従って
進化をコントロールし、時間を生みだし、空間を生みだし
自他の分離を生みだし、自分と他者という分離を感じさせているのであって


これらの知覚や認識には何ら記憶でしかにすぎず、結果でしかに過ぎない私と言うものには何ら関与できないし関与することはない



行為も自我の感覚もそして自他の分離もこの頭脳がコントロールし、その頭脳が数学的な正確さを以て生み出した結果である



知覚認識体験は条件付けられている頭脳が生み出した結果であり
この私という記憶体はさらにその知覚や認識や体験の結果であるに過ぎない



その私を生みだし、知覚を生みだしたのは頭脳であり、そしてその頭脳を条件付け
コントロールしプログラムしているのが生命・超叡智であり、愛と呼ばれているものである




それらはこの超叡智の結果であり、主客転倒の結果である記憶の私とはそれは関係していない
私とは結果であるに過ぎず、それが自我として死後も生き続け、進歩するとかしないとか
悟るとか悟らないとか、到達するとかしないとか言っているのである


何で結果にしか過ぎない、「生命のない記憶・自我」がこの頭脳を条件付けている超叡智と
関係しているのか



私と言う記憶である思考は結果なのである

この自己と云う感覚や体験や知覚や認識や行為や感覚は頭脳が生みだした結果なのである


その結果の記憶が「私」という自己感覚自己意識を持って死後も生き続け
輪廻転生していると思い込んでいる「わたし」である






【2009/05/22 08:10】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
愛があるとき知覚はあるか
この知覚の中に愛はあるか、意識はあるか、ただひとつだろうか
この記憶の中に愛はあるか、意識はあるか、ただひとつだろうか
この現在の私の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか
この瞑想の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか
このベッドから朝、目を覚まして生活している意識の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか



この経験の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか
この私であるマインドの中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか
この色々と知っている私の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか
この多くの神秘体験を重ねている私の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか



ではこの私という中心の中に愛はあるのか、意識はあるか、ただひとつだろうか


この瞑想している私は愛と関係しているだろうか、意識と関係しているのだろうか
ただひとつなる状態と関係しているのだろうか

この経験も
この知覚も
この瞑想も
この人生も
この記憶も
この認知も
この意識も
この感覚も
この体験も
この精神も


そしてこの私も


愛ではない、意識ではない、ただひとつではない


この私も、そしてこの私にやってくるものも、この私が造りだしているものも
全てが分離している、動いている、中心を持っているものだ


違う!



この私は、そしてこの精神は、このマインドは、この記憶は、この認知は
愛ではない、意識ではない、ただひとつではない


歓喜の仮面の奥に哀しみが見える
沈黙と言っているその奥に騒ぎ立てている自我が見える
連帯感ワンネスの言葉の奥に憎悪が見える
神秘体験の奥に分離した自我の増上慢が見える
思考が無いと云っている本人に思考が渦巻いているのが見える



虚偽を虚偽としない虚偽の中にどうして真実があるのか
この虚偽が想像し、創造した自他の分離宇宙にどうして真実の宇宙がありえようか
分離した私とあなたが知覚し知覚される世界にいてどうして愛を語る事が出来ようか
この認知そのものが
この知覚そのものが
この体験そのものが
この記憶そのものが



そしてこの私そのものが
愛ではなく、意識ではなく、ただひとつの全体ではない分離したものだ










【2009/05/16 08:09】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私が考えているのか
「私が考え、願い、感じ、行為しているのか、?
思い、願い、苦しみ、怖れ、逃げ回って、彷徨っているのは私であるのか」



ニサルガダッタ・マハラジは言う

『それは間違っている、それは「誰がしているのか」ではない

そこにあるのは欲望、怖れ、怒りであり

マインドが

これは「私だ」「これは私のものだ」と言うのだ

「私」あるいは「私のもの」といようなものは存在していない


欲望、恐怖はマインドの状態であり、

マインドによって知覚され名付けられたものだ

マインドが知覚せず、名付けなければ欲望も怖れも「私」も

どこにあるのだろうか』
【2009/05/12 23:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
用語解説
気づき-----観照者(意識の座・スクリーン)

  ↓

心・精神-----地球魂
             魂・分霊(永遠のパーソナリティー)・観察者
  ↓

思考感情-----第一想念の私
マインド
  ↓

思考者-----自我・思考者
            思考の記憶
            (起こってくる行為や思考に0.2秒後に条件
            付けに従って反応している)
  ↓
    (黄金の霊体・高次元体の形成・サイコノエティック体)
  ↑

条件付け----DNA+プログラム 
          (根源が投影した結果若しくはプログラム)
            輪廻している私と言う映像の実体 
            肉体・頭脳・諸身体・運命・
            出来事・カルマ・物語
            時間・過去現在未来・客体を含んだ主体
            私とあなたという分離・自我


意識の座という無思考・非対象の気づきという意識に
に現れる
「私は肉体だと主張して”本来の自己(無我)”を隠蔽する観念群」
それらのものに同一化するな
それらは愛ではない・意識ではない
意識もどきだ、
それらは全てが私は肉体だという観念に依拠している




考えている私
思っている私
感情を持っている私
信じている私
知識を持っている私
願っている私
欲望する私
自分は肉体だと信じている私
自分は記憶だと思っている私
対象を認識している私
愛のない私
自我の私
不安な私
将来を心配している私
恐怖する私
思いやりのない私
理解していない私
悟っていない私
それで瞑想して真我に到ろうとしている私
中途半端な思考を使って自己観察もどきをしていると思っている私
瞑想している私
妄想している私
空想し、取り憑かれている私、取り憑いている私
願っている私
誕生から死亡までの今生の人格の私
自分は個人で、他人とは別だと信じている私
私はエネルギーで空間自体ではないと思っている私
過去や未来があると思っている私
生まれたと思っている私、死んだと思っている私
幽界にいて死んでいないと思っている私・若しくは肉体から離れたと思っている私
転生している私、転生してきている私
過去世の私、前世の私、来世の私
知覚が肉体に縛られている私
良い事と悪いことと言う区別をしている私
やってくることを選別し、自分に有利なことだけを願う私
良い事だけを願っている私
何も体験がなく焦っている私
他人に愛のない私
判断し、等級を付け善悪を付けている私
劣等感の私
高慢な私・増上慢の私
自分は知っていると思っている私
狂っている私
最高の私
最低の私
知覚している私
認識している私
意識している私・意識していない無意識の私
熟睡している私
夢見ている私
目覚めていないのにベッドから朝、目が醒めたと思っている私
自分が存在していると思っている私




私はそれらの私を非難する気にはなれない
今までそれらの私を何故抱きしめてやらなかったのか
それらの私は愛しく思う
「私はそれらの私ではない」と言うことはおかしくおもう



私がそれらの私を認識していると言うことが
それらの私がこの認識している私であることを示しているのではないか




「見るものは見られるものである」
観察者は観察されるものだ
(クリシュナムルティーより)

だから
それらの私は私なのだ
だから私はそれらの私の話を聞こうではないか

わたしとして








【2009/05/03 23:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自我を観ているものは自我である
ラメッシは言う
「私達が自我を見るとき怖れがあります
物事のあるがままの中に確信があるとき
現在のあるがままに存在しているものを受け入れているとき
怖れの余地はありません」と


私達自我が内部や外部に「自我が見えている」とき、
その時、恐怖があるということだ


私達の自我が自分や他人の中に「自我を認識している」とき
その観ているもの、認識しているものとは自我であると、

だから、その自我を認識することができるわけであると

そしてそのとき、その自我を見ているもの(自我)とは恐怖の状態の中にあるということだ


従ってその自我を見ている自我とは恐怖そのものであるということだ

(恐怖であるからこそ、その恐怖が投影している対極物を想像して「愛深くなろう」としたり、「良き存在になろう」としたり、「神になろう」「自我を超越しよう終焉させよう」「覚醒しよう」「悟ろう」としたりするわけである、しかしその投影している対極物を想像しているときの現在の自我の状態とは恐怖であり、恐れている状態であるのではないか)


自我だからこそ自我を認識できるわけだし、
恐怖だからこそ恐怖を認識でき、
思考だからこそ思考を認識できるのだ、
「認識するものは認識されるもの」であるわけだ


分離しているマインドであるからこそ分離しているこのマトリックス現象世界を体験し認識しているわけだ
(自我が恐怖だからこそ恐怖・不安を感じているわけだ、マインドだからマインドを知覚できるわけなのだ、過去現在未来という時間だからこそ過去現在未来を知覚できるのだ、そしてそれらは時間だからこそ今を決して理解しないのである)



この意識し、認識しているものが即ち自我だからこそ、自らを対象化して、自分の中や、もう一人の自分であると言われている他人の中に自我を見ることができているわけだ



従って自我というものを内部や外部で(自分や他人の中に)発見し、認識できると言うこと自体が自我に覆われている状態であり
その自我を自分や他人のなかに見ている事が自我であり恐怖というマインドの状態であるわけだ


本当の主体(知覚対象ではない主体・意識されない真の主体)や思考ではない意識の座(スクリーン)であるなら、そこには自我はなく、どこにも自我はおらず、従って認識されるものは「愛・平安・喜び」でしかないと上江洲義秀先生は言われている、


このときの観ているものとは自我ではなく従って思考やマインドではない「気づき」であるのなら
当然、内部にも外部にも、何処にも自我は存在しておらず、何処にも恐怖や不安は存在していない事だろう


そういうことであるので


この「恐怖である自我が、恐怖という自我を認識している」状態の中で
その状態そのものを完全に全面的に受け入れ、その状態から逃げ出さずに
受容して「全て良しという確信」が生まれるとき


即ち「見ているものが自我であるからこそ恐怖という自我を認識し、知覚しているのである」という状態に静止し何処にも行かずに留まっているとき



その時そのものをあるがまま、完全に全体として丸ごと受け入れることが突然に起こるという
(恐怖が恐怖を丸ごと受け入れることが起こるという)


その状態がラメッシの言う
「現在のあるがままに存在しているものを受け入れている」とき
という状態に非常に接近しているのではないだろうか



そしてその時
彼は言う
「恐怖の余地はありません」と


恐怖からの解放が
観察者と観察されるものの分離からの解放が
観る者と観られるものの分離の開放が
主体と客体の二元分離からの解放が
自我からの解放の予感が感じられ
沈黙(思考の静止)の訪れが始まるのではないだろうか






【2009/05/02 11:23】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する