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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
見る者なしで見る
「見るものは見られるものである」のを見ているのは見る者ではない

「自我(エゴ)としての私」である記憶を直視している者は、見る者ではない

それは

見る者なしで見る事が起きているのだ、または生まれているのだ


それを、そのようなことは不可能であるとか

クリシュナムルティーは出来ないことを言っているとか

そのように言っている者こそが思考であり、記憶であり想念である


「自我(エゴ)としての私」とは記憶であり、思考であり、想念である

のを本当に見る事、思考や言葉や知識でそう思うのではなくて

実際に本当に無思考で見る事


そう思っている思考や言葉や知識や記憶を直視すること


無思考で見る事、非対象で見る事


その見る事のなかには限定された自己はもはやおらず、

クリシュナムルティーのいう

見る者なくして見る

という事が起きているに違いない

「気づき」が生まれているに違いない

思考の切れ目の発見が解放に繋がるという

思考というものは一見すると無限に繋がっているように見えても


本当は所々に切れ目が在るのだと言われる


その思考の切れ目の発見こそが解放に繋がる、と云われている



自己という想念には、それに切れ目がある。


隙間がありそれの発見が解放に繋がると言われる

自己からの、自我からの、マインドからの、時間からの、二元性からの、分離からの解放に繋がると云われる



マーヤとこの時間と云う分離という虚偽はマインドであり、


そのマインドには、よく見るとつなぎ目が実はあるという


それを見ている者は、見る者ではない、見る者なくして見ており

その見る者なくして見ていることが「自我(エゴ)としての私」の根源にたどり着いたのだ

見る者の根源にその時、たどり着いたのに違いないのだ



だからこそ、そのとき私はいなかったと云われる

ラマナ・マハリシの

思考なくして見る、在る


対象なくして見る、在る

こそ

見る者なき「見るものは見られるものである」の気づきであると思われる







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【2008/11/02 08:20】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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