FC2ブログ
気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
無念・無想・無心・無我・無思考・無対象・非時間・非二元・非分離が真の私


しかし、この私は記憶である


この記憶であり、
結果であり、
自由意志なき
行為なき
既知なる私は


意識していると思っている
知覚していると思っている
行為していると思っている
生きていると思っている
生まれたと思っている
自分の人生だと思っている
そして
体験し
経験し
記憶し
認識している



スポンサーサイト



【2008/07/22 23:35】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
魂の帰還?
魂は父なる神の元に成長し自覚して戻ると云われているが本当だろうか


魂は帰還するのか


それともこの自我ではない魂とは
真我の現象界の窓口である「観照者」という「窓」にへばりついた
プログラムなのではないだろうか


それとも、この窓のこと自体を魂と云っているのなら
それは最初から帰還している
窓から大空を観れば最初から大空であり何処にも窓はない、無限の空間があるだけだ




しかし窓から現象界というプログラムとカラクリを観れば
自分が進化し、成長し、
放蕩息子が父の元に戻るように見えるかもしれないが



その譬え話自体がプログラムというカラクリではないだろうか



旅は最初からなかったのであり
最初から分離はなかったのではないか


それを敢えて
魂が存在して、自我(エゴ)と観照者の間に存在しているように思わせること自体が



この現象界を維持し支えているシステムであるプログラムが生み出した
嘘ではないだろうか
この例え話が嘘をついているのではないか



私たちは輪廻の旅に出たのであろうか
それとも
輪廻の旅に出たと云う「錯覚のプログラム」が窓にへばりついているのではないか



だとしたら
あの聖書の例え話は
解釈を変えて見る必要がある
父なる神の元に戻るとは
ラマナ・マハリシの云うように
第一想念である自我の根源までたどり着いたとき
そこには第一想念は存在せず、自我は始めからなく
ただ真我である「見るものは見られるものである」しかなかった
即ち非二元性・非分離性・非対象・非思考しかなかった
ということ

即ち「ただひとつなるもの」しかなかったと言うことに
この例え話を変更する必要が有ることになる


この件について、私は思い、推測し、思考するのだが
魂とは神の聖なる催眠の策略ではないか
現象界を維持するために神が作った嘘なのではないか

真我である窓は開かれており
そこから無限へと、空へと繋がっており

その窓にへばりついた錯覚がプログラムである魂と呼ばれているものではないか


窓自体が魂というかもしれない

しかし窓自体が窓を観たとき
そこには窓はないのではなかったのでないか


だから窓を魂と言って
それが進化し、天の父なる神に帰還するという喩えは

私たちを窓に縛り付けるものである
【2008/07/06 07:57】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する