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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
モノ自体
「もの自体」


カントが言い
多くの透徹した哲学者、思想家が語った
「もの自体」
とはなにか


実際は
もの自体しかないのに
それを
その「もの自体」と物質を取り違えてしまった

何故そうなったかというと
そこに
「自我」という概念が介入して

このように
「見るもの」と、「見られるもの」  
「主体と、客体」  
「私と、私ではない対象」

という
二元・分離が生じ

そして思考が生じ
その思考の記憶が蓄積し初め

個人、人格が機能し始めるからです

と以上のように教えられている



その様に、私と言う想念に覆われてしまった結果

このように分離している対象としての見えている世界が現出した


これがこの次元の定めかもしれない

この根本は多分
わたしという想念だろうと思う


私と言う想念から生まれた記憶は過去なので
過去から未来というものを投影し
未来を創ったのだと思う、
その全体のプロセスが時間という虚偽である

私と言う想念は自体の存続を願って輪廻という仮象世界を生み出した

それを
維持するために
次元の保持者、若しくは創作者は「△」を創った

身体を私と錯覚した「私と言う想念」は多くの限定された個人・人格の私を生み出した
(これを思考する場合、時間空間という認識形式、自他分離の二元感、四次元体験の感覚を一時、超越する、又は想像する必要がある)


その個人は記憶そのものであり、記憶から出来ている
その個人とは人間だけではない、記憶有るものは全てが個人分離感を有しているのである

と言われている


その点では知覚範囲内にある対象物・客体は

思考は物質であり
物質は思考であると言われているとおりだと思うが


その思考である個人感のある物質は
「もの自体」ではない

思考としての物質は
「もの自体」の次元ではない


もの自体とは
絶対なる客体であり
単なる思考有る物質ではない




記憶とは条件付けの結果である
条件付けたのは根源である

記憶では「もの自体」には至ることは出来ない
「もの自体」とは純粋主体であり、純粋客体でもあり
その中には「私」を含まない


それ故に、それは真の絶対なる私・真の主体である
これが
次の次元だと思う

地球が移行する
次の次元は「もの自体」の次元である

そこは分離がない
記憶が働かないので個人の私はない
自他の分離がない
自他の分離がないので愛しかない
自他の分離がないということは一つしかない、それを真我とか真の神とか言っても良いかのしれない
自他の分離がないところでは時間がない、過去がないからである
自他の分離がマインドであったので


マインドであるところの目覚め・夢見・眠りは無い
この夢見・目覚め・眠りは共にマインドの特徴で

「気づき」が目覚めていないことを示している
「気づき」とはもの自体の意識でもある


それは完全な一体
分離できるモノは何もなく
全ては
一つ
それはあたかも、素粒子が全宇宙を支えており
その一つの素粒子しかないのに

マーヤの力によって全宇宙が生まれているかのように
思わされているのに似ている


だからそのマーヤもその素粒子が生み出したのだ


いずれにしても


思考が働いている限り
記憶が生きており

従って私と言う自我(エゴ)はまだ此処に在り
この幻想界は自他の分離という虚像を
そしてその知覚と感覚を与え続けるであろう


私がそこから脱出は出来ない
何故なら
私こそが、その思考であり、自我(エゴ)であり記憶なのであり結果であるからである


何も望めない
何も出来ない
何にも至らない
何も行為できない
何も思えない

従って
この私が
望むこと、していること、出来ること、思う事は

全て記憶の範疇であり
マーヤの範疇であり

従って
自我の枠内である
この私がいる限り


自他の分離は続き
この錯覚という
知覚と感覚は内部と外部を生み出すだろう
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【2008/03/16 07:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
聖なるハートの言葉
ハートの神聖とは何か







以下のことを本当に理解することが、神聖なることであり、

ハートの神聖なることであり、自由であり、解放ではないだろうか










「主体は客体であり、客体は主体である」
(「見るものは見られるものである」「観察者は観察されるものである」)






「外部は内部で、内部は外部である」


「思考は物質であり、物質は思考である」


(内は外で、外は内である)




「私とは概念であり、概念が私である」





「全ては此処であり、此処が全てである」
(素粒子は宇宙であり、宇宙は素粒子である)





「私は貴方であり、あなたは私である」




「過去は未来であり、未来は過去である」





「個は全体であり、全体は個である」




「行為は起こる、行為者はいない」
(出来事は起こる、目撃者はいない)







但し、以上を知識や言葉で知ることは知的理解り、マインドの領域内のことであり
理解とは言えない

正しくは理解を否定していることだ
理解は行うことやするのではなく、やってくると言われている
若しくは、今此処に既に在ると言われている

以上のことが、本当に神聖なることであり
権威が神聖なのではない
神聖なることはハートの中である

教えられている
【2008/03/08 08:44】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
キリストのヨーガより


「こころ、即ち「知られたもの」(この現在意識の私)は決して「知られないもの」(観照者・真の私)を啓示することは出来ない


心は単に観念や記憶や経験であるに過ぎない-それらは全て心を造り為している
ものであって

決して本当の真理(真の私)を啓示することは出来ない



真理(真の私)は内より啓示されるのであって、決して外からではない」
【2008/03/05 07:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
誰もいない
私はいない
貴方はいない
誰もいない
そして世界もない
宇宙もない
何も起きていない
そして
本当に何も起こっていない
これが真実であると
教えられている


記憶している私も貴方もなく
知識を蓄積している私も、貴方もなく
マインドに翻弄される私も、貴方もなく


生きている私も、貴方もなく
死んでいる私も、貴方もなく
悲しんでる私も、貴方もなく
探求している私も、貴方もなく
防御している私も、攻撃している貴方もなく
殺される私もなく、殺す貴方もなく
喜んでいるいる私も、悲しんでいる貴方もなく
肉体を自己と錯覚している私もなく、魂もなく、対象もなく
錯覚し、想像し、マトリックスに嵌っている私も、貴方もなく
アセンションする私も無く、アセンションする貴方もいない
ここには個人や人格や記憶の塊や、その成果である魂も無い
それらは全て映像であり
プログラムである
起きていることである
投影されている中身である
私ではない



何もなく
何も起こっていなく
ただある
ただ在るものが在る
既に在る
それが私
それが無限
それが未知なるもの、それが全体なるもの
それが時間と空間と次元を超えたもの
存在
全体
気づき、非分離意識
一つなるもの
分離していないもの
それが私



教えられている



行為者は私ではない
私は行為していない

出来事は私と関係していない
出来事は起きている
ただただ映像として投影され
プログラム通りに起きている
運命も、誕生や、離れることも



思考しているものは私ではない
私は思考していない
思考は起きている


考えているものは私ではない
私は考えていない
考えは起きている、やってきている



感じ、知覚しているものは私ではない
私は感覚しておらず、知覚していない
感覚も知覚もやってきている




恐怖や不安を感じているものは私ではない
私は恐怖や不安を感じていない
これらの分離感であるものを分離感無くして見よう、凝視しよう

やってくるものは私ではない
知覚しているもの、知覚されるものは私ではない
認識しているもの、認識されるものは私ではない
記憶しているもの、記憶されているものは私ではない
知識を蓄積しているもの、その蓄積した知識は私のものではない

この魂である過去は私ではない
私は時間の中にいきていると錯覚されている分離した魂ではない、

私には過去はない

私には未来はない

私には現在はない

生まれたものは私ではない
死ぬものも私ではない

生きているものは私ではない
未来があるものは私ではない

私は生まれていないし、生きてもいないし、死んでもいない
私はこの現在と、この分離している仮想束縛次元地域にはいない


この肉体の感覚は私ではない
従って私は肉体ではない、この五感感覚は私のものではない、創られて与えられたものだ

この五感や、この感情や、この喜びや、苦しみは、やってきているもので私ではない

従って私はこの感覚でもなく
この知覚でもなく
この喜びでもなく
この苦しみでもない


この自他の分離視
この自分と他人が分離しているという錯覚
世界が外部に有ると思っている錯覚
このなろうとする時間の虚偽、未来や過去はないのに……


過去や未来に思いを馳せる記憶の動作、習性


この自分が、この特定される時空の中にいて、世界や宇宙が有ると思っている錯覚


内部と外部の分離感覚、自己や他者の感覚
そして、これらの想像を支えている感覚という錯覚


これらは全て
私ではない


私ではないものである


私と言う人格、私と言う記憶、私と言う個人、私と言う何かに到達する魂


それらは全て私ではない


私は人格ではない
私は記憶ではない
私は個人ではない
私は真我に達する魂ではない

在るもの
既に在るもの
生まれていないもの
死ぬことのないもの
この「意識されている私」ではないもの
現象ではないもの
認識や体験や知覚や記憶ではないもの

私は何も
行為していない、行為するものは私ではない


私は何も
願っていない、願っている者は私ではない


私は何も
信じていない、信じているものは私ではない


私は何も
考えていない、考え、探求しているものは私ではない


私は何も
感じていない、感じ、感覚し、苦痛と快楽を知っているものは私ではない


私は何も
欲していない、何かを願い欲しているものは私ではない


私は何も
願っていない、なることを願っているものは私ではない、時間は私ではない


私は何も
想念していない、


想念し、概念し、知識を認識しているものはマインドであって私ではない


私は何も
記憶していない、記憶し、その結果、転生しているものは私でもない、


カルマを背負い、カルマに翻弄されているもの、記憶という結果であるものである
即ち
結果であるものは私ではない

私は結果ではない


起こっているもの
やってきているもの

それは私と世界宇宙である、それは結果である
それはスクリーンに投影されている映像である
時間空間、二元性、分離性、自己というマインドである



それは私ではない
私は在る
在る


とそのように
教えられている










【2008/03/04 07:56】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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