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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
主体と対象なしに見ると言うこと
主体と対象なしに見ると言うこと


これが、真に「見る」ということ、だとおもう


もし主体というものが、見ているならば、それは見ていない、盲目なのだ


また、もし、見る対象というものが有れば、それは見ていないことだ、それは盲目だ
何故なら対象とは分離のマインドが作った虚像だからだ、それはこの二元性というマインドの作った「対象認識システム」が投影している虚像なのだ,
と覚者の方々によって言われている


この投影ではマインドが自身を分離して主体と客体を作っているだけなのだ


これは「真の眼」が見ているのではない


これは内部でも、外部でも同じだ

自分の内部において、内面で、自分の中において葛藤や欲望や恐怖を対象として見たり

自分がその見る主体であるとき、それは見ていない、盲目に過ぎない

思考のプロセスが作動しているだけだ


そもそも、自分の内面や内部自身がマインドの作った虚像なのだ
自分の内面とは、外部に分離し対立するものとしてあり
この内部と外部に分割された内面は、真の内部ではない

それはマインドの作った私という錯覚の意識であるにすぎない
即ち外部から、やってきている思考や想念や感情や知覚や体験や記憶であるに過ぎない

それは真の内部ではない
真の内部とは「未知なるもの」である

だからそれは、この知覚や思考などの既知なるものでは、理解し見ることは出来ない


見る為には自由が必要だ、行為が必要だ
真の内部・内面とは外部とは分離していないのだ


この虚像であるマインドの作り出した、自分という錯覚の起こっている内面には
自由もなく
行為もない


真の見るとは「見るものは見られるものである」のことである、

と思う

この「見るものは見られるものである」の目こそ、非二元性・非分離性の全体の眼である


そこでこの件に関連して
ラマナ・マハリシの言う
「私は誰か」の意味はこういう事かもしれないと

以下のように推測してみた


輪廻転生している実体の私・魂は


プログラムされた想念である、若しくは想念のプログラムである


それは仮想主体であり、対象を客体と認識している私というものだ

それは私自身であり、他人を自分ではないと認識している意識だ

それには過去があり、将来がある、

それは未来があるもので、自身の継続を願っているし継続している

その意識は常に古い、何故なら記憶で出来ているからだ、だからやってくる事は、常に新鮮なのに、それに対して記憶から反応し、応答している

それとはこの現在の既知なるものの私であり、また過去のワサナとしての私達でもある、


だからこの既知なるものの私とは本当は外部からやってきた、想念が作った記憶だ、結果だ

そして、この継続している記憶・私は身体に縛り付けられている、コーザル体として、コーザル体は私「~である」として、或る継続する意識として、これは継続している
しかしこの意識体は、この「意識の座」と言う窓の鏡のスクリーンに投影されているだけだ


この「意識の座」の窓の鏡というスクリーンに投影されてきているものが、
歪曲された感覚、歪曲された知覚、そして分離する思考、感情、記憶、経験、時間、空間、言葉、知識だ


これらは、全てこの鏡に映し出されているだけの映像である、
それを私の感覚、私の想念、私自身と思っているのだ、
この既知なるものである私自身こそがその想念によって作りだされた虚像なのだ


それは外部からやってきたものだ


この「意識の座」という窓の鏡が、
頭脳の中核にと、縛られたので錯覚しているのだ、


その身体の頭脳の持つプログラムと、この頭脳の持つ条件付けを私の条件付けと思いこんでいる、

しかし、それは私の条件付けではなく、単なる頭脳の条件付けである

私とは、即ちこの分離しているこの既知なる「わたし意識」は、プログラムの結果である、


頭脳に縛り付けられた結果、発生したものがこの私という錯覚の想念であり、この記憶の継続体がコーザル体である、


それが輪廻しているものであるところの記憶だ、それは完全完璧にプログラムされているものであり、過去現在未来という時間で出来ている


それは、外部からやってきたものだ、それは結果だ。


結果は単に起きていることであり、全くそれに関与はできない

それは起こる、それは起きている、それはやってきている、それは結果である


それはプログラムだ。

それの通りに時間は進行し、それのプログラム通りに生まれ、死ぬ。

それは単なるプログラムであり、私という錯覚を生みだし、それを記録している

だから私とは記憶であり、記録であり、そのプログラムによって生み出された単なる虚像・錯覚に過ぎない


私は実際には存在しない

本当はいないのだ


そのプログラムは完全完璧で私を生み出したものだが、それはこの「意識の座」という窓の鏡というスクリーンに映し出されているものであり
そのシステムであるに過ぎない

しかし、それはスクリーンではない

この映し出しているプログラムとは、それは言うなれば映し出す、フィルムのようなものかと思われる

だからこの人生も、この人生を生き、輪廻転生している私も
この「意識の座」という窓の鏡というスクリーンに映し出されている映像であり、それはフィルムというプログラム・システムからの投射された虚像だ

起きていること、私、あなた、意識の内容、肉体、出来事、内部と外部、行為、意志これらのすべてはマトリックスであり、意識の座に繰り広げられる映像である


ほんとうに実在しているものは
この「意識の座」という窓の鏡というスクリーンであり
これこそが実在である

これこそは映像ではないものである

そしてもっと本当なのは
この「意識の座」という窓ではなくて

窓の外に
限りなく拡がっている
無限の空間である

それがフィルムを映し出している光源である

それが
「在る」である
それが
「眼」であり

それが
全体である

それが
「気づき」である

それが
「愛」である

そして

この頭脳に縛り付けられている、この私という意識にとっては
それは「未知なるもの」である

しかし、その「未知なるもの」こそ
真実の実在である
それこそ私ではないもの、即ち「実在」自身である


これこそが、実在、存在
そして
全体


一命一体である

と、そのように私は教えられているのである



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【2007/09/30 07:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
正しい想念、間違った想念

この、行為者はいないということ
なにも、起きてはいない、ということ


このことは、何にも準備していない方が聞いた場合に
虚無的に、自堕落的に
間違って捉えられる可能性があるかもしれない
という意見がある


この「全ては映像である」
「全ては何も起きていない」
と、言えるのは真に悟った人だけが言える
究極である
ともいえる


これを準備していない方が聞いた場合は
正しい行いをしなくなる危険性があると
いう意見も多い


しかし私個人は
「この何も起きていない」との概念のことを
悟らなくても、悟っていても
想念だけでも、良いから
そのように、思うことが正しい想念だと思っています


自分が何かを行為しているのだと
思うことの方が間違った想念だと思うのです


もし、そのことを聞いて、何も良いことをしなくなる人は、そのようにプログラムされており、それが起こるのだと


しかし現実は、「この行為者はいない」のことを聞いても聞かなくても、起こることは起きるのであり
起こらないことは起こらない、のだとおもいます


自分の中に欲望が起こることも、その欲望が起こらないことも、そしてその欲望が叶うことも、叶わないことも全ては起こることであるとラメッシなどによって言われております

結果に関しては何もすることは出来ないのだと
言われております



果たして、この人生で生きているのは誰か、私はいるのか、存在するのか
行為は、想念や、欲望、そして自分自身さえも
映像なのか

それとも
私という霊的実体が有って、自分がこの人生を生きて、行為しているのか、悟りと究極の覚醒があって、其処に向かって進化しているのか


ですので、悟っていない私にとっては
両方とも想念です
全ては想念なのですが


A:自分が何かをして、行為してこの人生を生きている、自分の人生であると、自分が輪廻していると 、努力して生きていると


それと
もう一つは
B:自分は行為していない、自分が生きているのではなくて、根源が、自分の意識のスクリーンに投影しているのだ、この自我(エゴ)を、生きているのは、私のように見えているだけで、根源の映像だけだ、私というもの自体が全くの根源の創作物・錯覚
聖なる催眠である、という想念



これは両方とも想念ですが


A:行為者が有ると思っているのは、本当は根本錯覚、間違いであり


B:行為者は錯覚だと思っているのは、本当の正覚である
これは真実ではあるが、意識にとっては未知なることであること
この私には認識が出来ないだけのこと


なのだと


私は心から信じています


これが想念ではなくて、ハッキリと理解できる段階に
行けば
私も、ハッキリと言えるのですが
今のところは
この意見も概念に過ぎません


ただ片方の想念は真実であることの想念であり


片方は全くの錯覚であるということです
【2007/09/29 11:29】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私の好きな言葉
私の好きな言葉


何も求めず



何処にも行かず


何も為さず


何にも成らず


何かで有らず


ただ在る


ただ見る


あるがままをあるがままに見る


外は内


内は外



私はこの言葉が好きだ
【2007/09/29 06:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
他人はいるのか、親・子供はいるのか
正覚者は言われる

(上江洲義秀先生から叱責を受けたばかりだから、この点はハッキリとしておくが、私がこれに到達したのではない、久保栄治ではない。正覚者の方が言っていることを、あくまで自分なりに意訳して紹介しているだけである。誤解しないようにして下さい)


・他人は幻想である(自分は幻想であるから)事

 従って、親も子供もいない、親や子供という概念は自分を肉体と錯覚し、生まれた、そして死んだと思ったりするマインドの思考の結果である。
本当は親はいない、子供もいない、兄弟もいない、他人はいない、そして勿論私はいない。


誰もいない、だから、すべてで「在る」。
これは知覚ではない、マインドではない。
「在る」は分離ではない、「在る」は意識ではない。
「在る」は今であるから、宇宙の始まりから終わりまでの全てである。「在る」は此処であるから、宇宙の全てのあらゆる場所である。
「在る」は私であるから、宇宙の宇宙以外のあらゆる全ては私である、だから私しかないので他人がないのである。
自と他の分離は意味を成さない、自と他というところの概念は、身体と同一化した個人や人格を前提にしているが、それらの分離が無いところには自分も他人もいないのである。
マインドこそがこの自と他の概念を作ったのだ、



・私は生きていない、と言う事


 この一定の空間と、ある一定の時間に自分がいると思うこと、生きているとおもうこと自体が、思考の結果、マインドの策略である。


これは嘘だ。虚偽だ。偽物だ。


私がある一定の場所にいて、ある一定の時間にいると言うことは「無い」。映像との自己同一視だ。
それはマインドが肉体と自己同一化して、その結果、自分が生まれ、他人が生まれ、そしてそれぞれがある一定の時間と空間に於いて、自分や他人が生きているのだと錯覚し、そう思っているだけだ。


ごまかされてはいけない。


だれもこの一定の時間と、ある一定の空間に生きているものなどいない。これは、それは映像である。

知覚と感覚そして記憶によって騙され続けてきている。自分はこの映像の出演者ではない、出演者は映像に過ぎないのだ


この世界、この分離している世界、自分以外に外部や内部にあると思っている、思わされている世界・自分・他人は、虚像である。


頭脳がマインドにより内部と外部に分割し、頭脳から外部に投影されているのだ、感覚を使用して。


これはマトリックスだ。


外部宇宙、外部客観世界、内部宇宙そしてそれを認識し知覚しているこの私も、私の自我も全て投影されているのだ。

そしてその投影方法が時間である。
自他の分離空間である、限定空間である。


生きているものは私ではない、私と錯覚し、私と自己意識しているマインドである。このマインドの中身は恐怖である、それが自己だと思わされているのだ。


この分離され、時間と限定客観及び主観世界に生きていて、肉体と思っている自分とは、マインドが作った自分である。


私はいない。


嘘の自分、マインドの作った記憶の固まりがそう意識しているだけで、そこには私とか自己・他人などと言うものはないのだ

マインドの自作自演だ、誰もいない、自分もいない、他人もいない、この時間もない。


生まれてはいないのに肉体に縛り付けられたとそう思わせているのは輪廻をしている意識界のマインドの作った記憶の塊であり、その記憶の固まりが、自分だと思い込んでいる、

そのマインドが自分は生きている
進化していると思い、
そして解脱し、
成就すると錯覚している、


しかし、それは悟らない、成就しない、解脱しない、何故ならそれはそもそも記憶でありその本質が分離であり二元であり、時間であるからだ。


それは実在ではない。

と以上、意訳すると大体ニサルガダッタ・マハラジ達は上記のように語っている。

私、久保栄治は勿論、そのような境地ではないし
思考やマインドや、その作りだした自己は脱落していない。
紹介しているだけだ。

さらに紹介すると
意識とは、
無意識とは、
知覚とは、
経験とは、
記憶とは
認識とは、
思うこととは、
自分が生きていることとは、その記憶であるマインドがそう錯覚しているだけで、それは虚偽である、幻である、映像である

究極にはそれは映像であり、実在ではない、存在していない。

私も、貴方も、親も、子供も、この一定の世界も、時間も、外部世界、内部世界共に映像である

映し出された世界である

それは実在ではない。結果世界であり。全体ではない

実在は、存在は思考されない、想像されない、従って創造されていない、私ではない、私と分離した貴方ではない。自も他もいない、それは錯覚である、叙述されない、意識されない、知覚されない、認識されない、記憶されない
従って記憶されものは実在ではない
意識されるものは実在ではない
知覚されるものは実在ではない
認識し、体験されるものは実在ではない
叙述されるものは実在ではない
創造されるものは実在ではない
想像されるものは実在ではない
自分は実在ではない
自他の分離の他人は実在ではない
思考は実在ではない
マインドは実在ではない
意識界は実在ではない

と彼ら、ニサルガダッタ・マハラジ達の教えを解釈すると
私には、上記のように彼らは言われているような
感じがする
【2007/09/28 07:57】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0)
頑張ってもなるようにしかならない
不安に、捕らわれても大丈夫
なるようにしかならないのだから


将来を心配しても大丈夫
なるようにしかならないのだから


絶対に安心して大丈夫
一切の心配はご無用
何故なら

「なるようにしかならない」のだ


起こることは、なるようにしかならないからだ
どんなに藻がいても、どんなに努力しても、どんなことをしても


なるようにそれはなる
ならないようにはならない
なるようにしかならない


起こること、やってくることは
善悪、苦楽を超えている
自分にとっていやなことも、良いことも
共に恩寵である
自分の内部と外部にやってくることは、共に祝福である
素晴らしいことも、苦しいことも
楽しいことも、楽しくないことも
それは共に感謝でもって迎えられる


それは、起こることとして根源からやってくるのである
死ぬことも
生きることも
共にそれは私ではない
私にやってくることである
それは根源からやってくる

私が生きているのではない
私が行為しているのではない
この人生は肉体と思考と感情と記憶とこの人格を使って
根源が演じているのである


私は生きていない、観照している
私は行為していない、ただ見ている
それは私の魂や人格や個人や肉体を使って演じている映像である




この現在意識は条件付けられた頭脳によって制縛されているが
この頭脳の条件付けを解いて、意識の座に高次のエネルギーや、高次の意識が受けられる様になり、現在意識と高次意識が繋がるようになるためには


意識の座を覆っている「塵」が綺麗に掃除されていなければならない
そして、その為には意識の座の塵を掃除しなければならない


身体の健康だけではなく、マインドの健康も必要だ
マインドの健康とは、マインドを自覚しないことだ
自己を忘れていること、自分を感じないこと、自分、自己を意識しないことが健康の証である


その掃除こそ内部の受動的凝視であり、その受動的凝視とは「見るものは見られるものである」で見ることである


即ち見ている主体とは、見られている客体が生み出した「私」という観念記録であると言うことである


私とは、自己とは、他己とは、分離であり、二元であり、時間であるマインドが生み出したものである

それは錯覚だ、実際には存在しない、マインドだけがある、そしてそのマインドが行っているのだ



この時間であるマインドが頭脳の条件付けを行い、自己や他己を生みだし現象界という錯覚を維持し運営しているのだ


あるがままをこのマインドが覆っているのだ


私たちの意識はこのマインドが覆っている、それが現在意識だ


知覚や、体験も、認識もこのマインドの中で行われている


だから自由はない
「~なる」こともない
~することもない
行為者はいない

だからこそ

私達は知らなくて大丈夫、知ることが出来るものは全て真の私ではない
体験していなくても大丈夫、体験できることは、全て真の私ではない
知覚していなくても大丈夫、知覚できることは、全て真の私ではない


全ての知識は無知である、それはマインドの領域内であるからだ
全ての知ることは無知である、それはマインドの領域内であるからだ
全ての体験や、知覚は、マインドの領域内である


真の私達の意識は知識に覆われていても、それは在る、未知なだけだ
真の私たちの知覚は知覚されなくても、それは在る、未知なだけだ
真の私たちの意識は体験されなくても、それは在る、未知なだけだ
真の私たちの世界や次元は認識されなくても、それは在る、未知なだけだ


未知なるものは起こる、やってくる
それは根源から、内部からやってくる
やってくるものこそ、既にあったものであり
未知なるものである

しかし、現在のこの知覚、認識、体験はこの未知なるものではなく、既知なるものである

これらの既知である「~なる」世界は私達の世界ではない
これらの既知である「~する」世界は、現象世界と言われている

これが輪廻転生をしていると錯覚しているマインドという根本無明が支配している世界だ

この中で起こっている自己や他己を自分だと思ってはならない

それは私ではない

私だと思わされているだけだ

この私だと思わされていることとは

この肉体
この環境
このカルマ
この運命


それは内部もだ

このマインドの支配は内部と外部を分割することだ、内界と外界が別に存在していると錯覚を起こさせている

また自分というこの私が有ると錯覚を起こさせている、そしてそれにより、自己と対立する他己という他人があると思わされている
自他の分離が在るという錯覚、自分と世界が分離しているという錯覚を起こさせているのだ

私たちの内面にあるもの
願い、
進歩し良くなろうとすること、
人を愛するように、愛するようになれるように思うこと
悟りに近づくよう、修行して改善すること
多くの欲望
そして希望
努力すること
良くなろうとして、努力し、力を尽くし、行為すること


しかし、これらは残念にも良くなるどころか悪化する

何故なら、それらは、根源的に恐怖と苦痛に駆り立てられたマインドが、自己から逃避しようとして行っていることだからである

それらの本質は、全て将来という
存在しない錯覚の上に浮かんでいる想念である

あるがままは過去や未来にはない

これらの過去や未来に起こるであろうことは

既に存在している

それらは結果と共に全ては単に起こるだけである

もう一度言う

それらは結果と共に全ては単に起こるだけである


私はそれらの起こることには影響されない


私はそれらの起こることではない


私は在る

私は在る
私は肉体ではない
私は思考ではない
私は感情ではない
私は知覚ではなく知覚されるものでもない
私は経験でもなく、経験されるものでもない
私は意識ではない、またこの意識内容でもない
私は記憶ではない、この記憶はマインドが作り出したものである
私は魂ではない、私はこの現象世界に降りてきたことはない
私は無い

この私は絶対に存在していない

未知なる私は在る
真の私は在る
意識されなくても「在る」
体験されなくても「在る」

私は在る

在る


とそのように私達は教えられているではないか
だからニサルガダッタ・マハラジの弟子でもあった

ラメッシは
このように言う
「まるで自分(マインドによって錯覚されている個人・人格)が自由意志を持っているかのように生きなさい」

「そして、自由意志は本当は持っていないのだと言うこと、全ては起こるのだとハッキリと体認しなさい


そのときこそ自由の実感、意識の実在が分かるでしょう」と








【2007/09/22 07:21】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0)
なぜ将来を心配し、思い煩うのか
何故、わたしたちは健康や金銭や仕事のことで思い煩い
将来のことを色々と考え心配するのか


それらの将来のことや、仕事のこと、また起こるであろうことを心配しているのは誰か


それは「意識の座・眼」を覆っているマインドと呼ばれている記憶の塊ではないのか


私達が自分が肉体ではないと本当に理解し、実感しているなら、それらのことを心配するだろうか


よく考えてみると、健康や、金銭や、仕事のことを考え、気にするのは、自分が身体であるとの錯覚に捕らわれ、この錯覚を信じているからこそ、それらの思考や想念や感情が起きているのであり、心配しているのだ


自分が身体でなければ健康や、金銭や、仕事のことは心配しないし、思い煩わないだろうし、思うことすらしないであろう

それらの心配は自分が肉体だと考えているからこそ
浮かんできている思考なのだ

将来のことで心配することは、自分が満足への願望と、快楽への願いに捉えられていることを示している、


それらの想念の根底には、自分は肉体、又は身体であるとの錯覚があるのだ、だからこそこのような想念・感情が発生してくるのだ。

現実は如何に私達が満足の追求と、願望に依然として捕らわれており、それによって動かされているかを暴露している

私達は未だに、このマインドによって覆われている

その証拠が、将来のことを心配している、この心の動きであるとおもう

キリストは「汝らよ、将来のことは思い煩うな」と言っているが
このことに関して

ニサルガダッタ・マハラジは次の様に言っている


「記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ、

未来に関心がないこと、


それが賢者の独自性のひとつなのだ。


あなたの未来への関心は、


苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。


賢者にとっては全てが至福だ


彼は何が来ようとも幸せなのだ。


賢者は困難に遭遇するかもしれない。


しかし、それが彼を苦しめることはない。


子供を誕生から成人まで育て上げることは困難な仕事かもしれない。しかし、母親にとっては苦難の思い出も喜びなのだ。


世界には何の間違いもない。



誤りはあなたの見方にあるのだ。


あなたを惑わすのは、あなた自身の想像だ。
想像無しには世界もない。

あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。

あなたが知覚している世界は意識で出来ている。

あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。

あなたは、その中で世界が動く空間(アカーシュ)だ。

あなたは永遠に続く時間だ。あなたはそれに生命を与える愛なのだ。

想像と執着を切り落としなさい。」


ニサルガダッタ・マハラジの言葉から示されているように
私達は無限の空間であり、愛そのものだといわれている、

なのに

自分たちのことを身体だという錯覚に捕らわれているのだ

それを示しているのが

将来を心配し、思い煩っていることだ




【2007/09/19 07:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
探求しているものとは記憶の私だ
無知が知ろうとしているのだ、探求しているのだ

知ろうとしているものとは誰か、

探求しているものとは誰か


それは無知であるものだ
真我探求し、到ろう、知ろうとしている私は、既知なる記憶の塊だ
頭脳によって生み出された記憶、愛のない分離の思考の塊だ

その塊が
神になろうとしている
宇宙の仕組みを知ろうとしている
真我に到ろうとしている
愛と智慧を得ようとしている
その自己が非自己になろうとしている、自己を超えようとしている
条件付けられた頭脳によって生み出された既知なる思考が、未知なるものになろうとしている


この記憶であり、条件付けられた頭脳から生まれた思考は
そしてこの記憶が凝縮した自己は
分離性そのものであり、二元性そのものであるため
非分離・非分離である非自己・全体・愛を知ることは出来ない


この自己という条件付けられた頭脳によって生まれた私は
記憶の塊は
「~なる」ことを求めても、成ることもなく、
神を知ろうとしても知ることもない

この自己は既知なるもの、無知である、思考である


私は無知そのものである

だから知ろうとする
知識欲は邪悪なのだ
神に到ろうとしているものは邪悪なるものである


だから、その私は成ろうとする
「~よくなる」ことは良きことの否定である


だから、この私が真我探求する
真我探求することは、真我の否定である


この条件付けられた頭脳から生まれた記憶の私は
恐怖自体なのに恐怖から逃れようとしている
不安自体なのに、不安から逃避し、安定を求めている
暴力と憎しみ自体なのに愛を求め、自分を良くしようとしている



これらは全てが思考である、思考の働きそのものである


この私は何処にも行けない
この私は何にも成れない
この限られた思考の時間と閉鎖空間の中だけで生きているのだ

それなのに
真理を探究し、神を求めていると錯覚している

では
真理を探究し、神を求めているものとは、一体誰か

それこそが条件付けられた頭脳から生まれた記憶の塊の私だ


この私とは実在ではなく、想念形態、思考に過ぎない

実在である愛があるとき、
愛であるとき
私はいない
と覚者のかたは言い続けておられる


この
なろうとしているものは愛ではない
このなろうとしているものは沈黙ではない、平安ではない、喜びではない、智慧ではない

このなろうとしている私こそが
愛ではないもの、憎しみであり、怒りであり、暴力であり、恐怖であり、不安であるものだ


いかに足掻いても

このなろうとしているものは、なることはない


それは愛とは憎しみがないことであり、怒りがないことであり、暴力が無いことであり、恐怖がないことであり、不安がないことであるからだ

だから
愛とは愛ではないものが無いときの状態なのだ


愛とは即ち私が無いことである


私が存在しない状態が愛の状態なのであって


愛を持つとか、するとかしないという事ではない


愛はあるかないかのどちらかで、私がここにいる限り、ここは愛はないのだ


私がいないとき、ここには愛だけが在る




【2007/09/05 08:29】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
存在しているものは未知なるものである
継続している意識
この現在の意識
喜怒哀楽・恐怖・安全を求め・常に苦を避け、快を求め・成就を求めてるもの
常になろうとしているもの・良くなろう・持続し継続しようとしているもの

ーこの現在の私たちの意識

これは結果であり
頭脳の条件付けを経過し、知覚と感覚そして言葉によって組み立てられた意識であるとおもう


その意識の特徴は「時間と空間」「自と他の分離」「私という主体感覚」を特徴としている


そしてその頭脳の条件付けから、時間感覚が生じ、諸々の思考・感情が生み出され、その思考と感情は記憶され、その記憶の集積が人格と個人を生み出している

個人と人格・私とは記憶である、人類全て、同じ頭脳の条件付けの記憶の反応である

私・とは継続している記憶の反応に過ぎない

それがいくら転生して年齢を重ねても、その記憶は頭脳の条件付けの結果である

現在意識は全く、この条件付けられた頭脳によって生み出されたもので
この頭脳の結果である


その条件付けられた頭脳が
心を生み出した、
現在意識を生み出した
この私という自我(エゴ)を生み出した
過去現在未来の時間という感覚を生み出した
内部と外部の分離を生み出した
恐怖を生み出した
安全と安定を求める心を生み出した
感覚と知覚を生み出した
経験と体験を生み出した
言葉を生み出した
自他の分離感を生み出した
二元性を生み出した
個人・人格という錯覚を生み出した
記憶を生み出した
輪廻転生を生み出した

これは全て条件付けられた頭脳が生み出したものである

私たちの意識は条件付けられた頭脳のこの結果である


ではこの頭脳の条件付けは
そして意識を生み出す頭脳を生みだしコントロールしているものは誰か

それは
この現在意識でないことだけはハッキリしている

この現在意識は、単なる結果であるからだ

この結果である現在意識の特長は
単なる結果であるのに過ぎないのに

この頭脳によって生み出された意識は


想像したり、錯覚して、幻想を生み出すことが出来ると言うことだ
その
想像や、錯覚は物質を生みだす
幻想も物質であり、エレメンタルというかなり現実性のある想念形態物質を生み出すが

その正体はこの錯覚が生み出した思考物質に過ぎない

これが自体を複雑にしている

これらは全て条件付けられた頭脳(物質頭脳だけではない)によって生み出された結果なのだ


愛はこの頭脳の条件付けの結果ではない

愛とはこの条件付けられた頭脳の中にはない

愛とは二元性や自他の分離の中、そして輪廻している自我(エゴ)の継続の中にはない

愛とはこの頭脳を条件付けたもの自体である

愛とは、この頭脳を創造し生み出したもの自体である

愛とは、この頭脳そのものである

愛とは、この頭脳をコントロールしているものである


愛とは、この条件付けられた頭脳から生み出されたもの、即ち思考や感情や言葉や知識ではないものである、これらは全て、この条件付けそのものである

愛とは現在意識や思考や感情や記憶ではない

愛とは二元性や自他の分離、時間空間の認識の中にはない、従って二元性ではないもの、分離していないもの、時間空間ではないもの、個人や人格や私ではないものである

愛の中には私という意識、感覚はない

愛は結果ではない、原因である

愛は未知なるものである

愛があるので、この現在意識も、この錯覚も、この幻想も成立しているのだ

愛無ければ全ては無いであろう

愛は未知なるものではなるけど、「存在」である、それは幻想や錯覚という頭脳によって生み出されたものではない


これに反して私達の認識している内部も外部も、「存在」それ自体ではなく、単なるその結果であるものである


現在の意識や、この意識の中身である感覚、知覚、体験、経験は条件付けられた頭脳が生み出した、頭脳の反応であり、この頭脳自体の制約が生み出した錯覚と幻想である


この錯覚と幻想が自我(エゴ)であり、その自我(エゴ)が知覚し、認識し体験する内部と外部なのだ


【2007/09/03 07:21】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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