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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
気づきの中には、自我と真我の区別があるか
気づきの中には、自我(エゴ)と真我の区別が存在するのでしょうか

私たちが記憶の束縛から脱出し、分離していない意識状態即ち「気づき」であるとき

そのとき、そこには高次の我や低次の我という区別、自己とハイヤーセルフの区別、自我(エゴ)と真我の区別、分離があるのでしょうか

またそのとき、その気づきの意識状態の中とは「わたしはあなた・貴方は私」「世界は私・私は世界」だとおもいますけど
その「わたしであるあなたとは、あなたであるわたし」とは完全完璧なのではないのではないでしょうか

それでいて、現象としての私も中に含んでいる、という現象と実相の分離のない意識状態なのでしょうか
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【2007/08/30 07:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
相手のマインドは、私のマインドだ
自分の内面に
やってくる思考、想念
そして、それに対する反応

やってくる思考・マインドには、私のものや、他人のものという区別はない
それは、共に分離性であり
その分離とは見るものと見られるものである区別、断片
即ち
観察者と観察されるものを生み出し続けている

そして

その反応である観察者も非難せずに同一化せずにただ「見る」
ただ「拝聴し聴く」
そして何もせず
何にもなることをせず
何処にも行かず
何にもなることをしないで
ただただ「在る」
「在る」

その状態の中では
外界での立ち向かっている他人の内部も、私の内部を投影している、にすぎない
何故なら、同じマインドが創り出した、個人という記憶が観察しているからである

この観察されている対象であるマインドは、観察しているマインドである

自分であることも、他人であることも、その区別はない
その区別は肉体の頭脳が、全人類がそれぞれが同じよう、頭脳が条件付けられており、そのように分離した個人という区別をしているだけだ

実際にはその頭脳が創り出したマインドの中身は同じだ、そのプロセスも仕組みも同じだと思う
(マインドの中身は記憶であり、その記憶が凝固して輪廻している個人というサイコノエティック体という記憶の塊を創っている)

自分の心の内部と、
その自分の心の内部に写っている、立ち向かっている他人の心の内部は同じだ、それがマインドの認識システムだ

自分の内部の心なのに、それを他人の心に投影して、他人の内部にそれを見つけるのだが、実はそれは他人の心ではなく、自分の心だ
それは他人ではなく私自身である

それなのに「他人の心の内部なのだ」、と騙されてしまう
他人の内部に認識されると言うことは、その認識されていると言うことでそれは自分の内部であることを示している

マインドがマインドを認識しており、自他の区別はそのマインドが起こしている、
従って相手の心の内部とは、同じマインドの実際の中身である


今日のミクシーの書込して下さった方から素晴らしいヒントを得ることが出来た

久保栄治がIさんが僭越だ、傲慢だと思ったりしていること、それはこの久保栄治が僭越で傲慢だからなのだ、

だからこそ、それをIさんの内部に投影して、そのIさんが僭越だ、傲慢だと非難してしまったのだ

その僭越と、その傲慢は自分自身であった、

なぜなら同じマインドが、同じ条件付けの頭脳を使って流れてきているだけだから、人類のマインドは共通なのだ、同じように分離して僭越で傲慢なのだ

それは、その条件付けられた頭脳を経由した分離性のマインドの記憶が「私」という個人という個別性の人格を生み出しているに過ぎない

だから
私の回りにいる人々は、同一の同じマインドなのだ、

Yさんの事を「神に到ろうとする目的に囚われている限り、その神に到ろうとしていること自体が思考の働きである、従ってその彼の願望・目的自体が邪魔をしている」と思っている、このことも
Yさんは実は、久保栄治の内面を暴露しているのだ

Yさんのマインドを認識していると言うことで、それは自分のマインドであることを示している

何故なら、認識するものは認識されるものであるからだ

一つしかないマインドがそれを、頭脳の記憶に騙されて、Yさんのマインドだと、間違って区別をしたのだ

それは同じマインドであり

それが意識の座を覆っているのだ




【2007/08/27 08:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
神の信仰は自己の欲望の投影だ
いやいや○○さんは
曲がった性格ではないと思います
事実は事実なので
それが例え、その人の考えと違っていても
それは真実なのだと思います

虚偽の上には真実はあり得ませんし
想念や観念の上には未知なるものは現れません


何故悟った人や神や仏に接近するのでしょうか
接近して
その悟った人や神や仏から
素晴らしい認識や、愛や気づきや幸福や平安を貰おうとしているのです

講習会や何かに参加し、信仰することで私たちは
正確に言えば搾取しようとしているのです
彼らから奪おうとしているのです

私たちは
悟りや神や仏を求めていると思うのは錯覚です
実は彼らから接近することで愛という宝を略奪しようとしているのです

この私たちの思考や観念は略奪者なのです
だから悟りや神や仏を信仰するのです

信仰心の本質は愛ではありません
それは全くの愛ではないもの
即ち二元性という観念や思考であり奪うことを目的にした泥棒です

従って、その私たちの略奪者という姿が外部に投影されて
私たちを搾取する、所謂心霊的な「神なるもの」が出現して
今度は、私たちから、今度は略奪するのです
私たちは搾取されるのです

これが宗教の実体です

その想念形態や霊的な神から搾取されるのは
自分の姿が外部に投影されたものです

問題の核心である
それらを起こしている
意識そのものに
焦点を当てない限り
問題は消えないと思います

主体は客体である

覚者は言っておられます
【2007/08/18 09:27】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
そっくりマインドに騙されるな
一見すると
上江洲義秀先生とクリシュナムルティー達の説明は違うように見える

しかし、私には全く同一に思われる

上江洲義秀先生の言われる
「一命一体」「我は神なり、神は我なり」は

クリシュナムルティーのいう
「見るものは見られるものである」である、そのものの状態であると思われる

「見るものは見られるものである」という、その非二元性、非分離性のメッセージこそ

「一命一体」「全ては神なり」と言うことの、具体的な心理的側面からの描写なのであるから

一命一体とは「見るものは見られるものである」を
上江洲義秀先生独自の感性で述べられたもので、中身は同じである

その上江洲義秀先生の独自性こそ、一番信頼できるものなのである
借り物ではないと言うことだ

コンピューターだってクリシュナムルティー達と同じように言うことは出来る、しかしこの独自性はだまかせないのだ

マインドというコンピュータの言うことに騙されている人のなんと多いことか

【2007/08/13 08:10】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0)
マインドである私を愛そう
マインドである私を愛そう、抱きしめよう
マインである私は敵ではない、悪ではない
それは私なのだ
そのマインドである私は、それはただ知らないのだ、無知なのだ
だから
私を私が抱きしめよう

今まで私が私自身である私を避け、逃避し、非難していたのだ
恐怖というレッテルを貼り、
暴力というレッテルを貼り
自我(エゴ)というレッテルを貼り
自己意識、自己関心というレッテルを貼ることによって

このマインドの私から、私自身から分離させていたのだ

この知覚している私はマインドである、マインドの一部分である(頭脳を経過した)

また知覚されている対象としての私も、マインドであるマインドの一部分である(頭脳を経過した)

この自己とはマインドそのものである

マインドが知覚し、マインドが知覚されている

外界が内界ではないと信じているのは、マインドである

あなたが私ではないと感じ、自他の分離を信じているのはマインドである

自己を自己と感じ、個人人格を信じ、貴方や他の意識や存在と分離していると感じているのはマインドである

この知覚し、されている私とはマインドである

この意識の私とはマインドに他ならない

なのでこの私を個人や人格と思い、貴方や世界や宇宙や外部を自分とは分離していると思っているのだ

またそのマインドが常に過去や将来に焦点を合わせて「良くなろう」「そうありたい」という「~なること」、目的を持つこと、目標を持つこと、動機を持つこと、願望を持つことをするのだ

この意識そのものがマインドであり、そのマインドの自己なのだ

だから私はこの自己そのものであるので
すること、なること、行うことは全てマインドである、マインドそのものの本性である、そしてそれは分離している、分離するので見るものと見られるものという最初の分離を起こすのだ

私は
何処にも行けない、何処にも行かない
何も望まない、何も願わない
何にもならない、何にも成れない
何も思わない

それらは
知覚として、知覚されるものとして
願望として、
恐怖として、不安として
憎しみとして、悲しみとして、有るときは喜びとして
思いとして、思考として、感情として
そしてマインドが創り出した自己として

この「意識の座」に現れては消えていく、来ては流れて去っていく

その現れては消えていくものこそ私である
来ては去っていくものこそ私である

私というマインドである、分離性であり、二元性であり、過去現在未来と分割する時間である

それがこの「意識の座」に現れては消えていくのだ

それらは私というマインドである

この私というマインドを受動的に凝視しよう

クリシュナムルティーは言う
「その受動的な凝視の中に自らの素性を自ずから話し始めるものです」と、

私であるマインドを
非難してはいけない
批判してはいけない
逃げようとしてはいけない
避けてはいけない
一体化しようとしてはいけない
善悪を付けてはいけない
思考を使ってはいけない

ただ見守るのだ、
暖かく

その悲しみを、その苦しみを、その悩みに耳を傾けるのだ
それは私である
またその耳を傾けているものも私だ
「見るものは見られるものである」である
この分離性と自己と他に分割しているもの、常に過去や未来に志向しているもの、外部に世界や宇宙があると思っているものに耳を傾けるのだ

その耳を傾けているものも自己だ、それ自身なのだ、マインドなのだ

それら内部のものは全て「真の私」ではない
「外部は内部である」そしてその「内部は外部である」即ち
分離していないという

そしてそのとき
「内部でも外部でないもの」即ち愛が、非二元性である気づきがそこに
沈黙の中に姿を現していると
ニサルガダッタ・マハラジ達は言われている

【2007/08/06 07:21】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
何処にも行かないで
自分を見ている目が、そのまま他人を見ている


自分を愛していない人がどうして貴方を愛することができるだろうか
愛するためには、まず自分を愛していることが前提条件だ

内部を見ている目が、そのまま外部を見ている

自分が自我(エゴ)に囚われているから、貴方のことを自我(エゴ)だと思うのだ、そして欠点が見えるのだ

貴方の中に欠点が見ることが出来るのは、自分が自分を愛していないからである

まず自分を愛することが出来なければ、他人を愛することが出来ない

そして、自分に愛があるためには

自分を非難してはいけない、ましてこの自分を拒否したり、どうにかしなくてはとか思ったり、良くなるようにしなくてはとか思って、改善しようとしたり、押し隠したり、自我観察したりしてはいけない

その自分に観察され、非難され、自分ではないとさえ思われている、その自分を見ているものこそ、その非難され、観察され、自分ではないと思われている私なのだ

その対象の私を見ている私とは、その対象であるマインド自体が分離であるので、見る主体を生み出して、あたかも自分の対象として自分自身を感じているのだ

見られている自分は、見ている自分なのだ

そして、それなのに、その自分から逃避しようとしたり、何とか良くなるように瞑想したり、祈ったり、撲滅しようとしたり、それは私ではない「外部からやってきたマインドなのだ」などと言っているのだ

その見ている主体である自分こそ、見られている対象の自分(客体としての自分)が生み出した「私」なのだ

なので「良くなる必要はない」、何故なら良くなろうとしている自分は、その見られている「良くない自分」そのものであるので、良くなると言うこと自体が矛盾している、と言うより
その「良くなろう」とすることが、その見られている、そして見ている両方の自分であるマインドの特徴である「良くなろう」とする特徴なのだ

それは常に、自分に対して、善悪を付け、非難し、批判し、排斥し、分離し、「良くなろうとしている」、であるので、そのマインドの特徴である、その意識に引っ掛かって、又は覆われて、自分を良くないとか良いとか、自分のことを醜いとか、美しいとか、他人より上だとか、下だとか考えて「良くなろう」としてはいけない

その良くなろうとすること自体がマインドの特徴である「逃避」である

そのあるがままに自分は自分なのである、だから何処にも行けない、自分をマインドの働きで非難してはいけない、改善しようとして努力してはいけない、戦ってはいけない

その自分は自分であり、それはマインドなのだ

自分とはマインドなのだ、それが「意識の座」を覆っているのだ、自分自身として、これを偽我ともいうが
今は、そのようにレッテルを貼って分かったつもりになったりしないで(何故ならそれを偽我とレッテルを貼っているのも偽我であるからだ)

そのマインドの自分を、マインドの自分がハッキリと見るようにしよう

マインドがマインドをこの意識の座において見るのだ

この見ている自分は見られている自分そのものであることを

そしてその両者であるマインドの策略に乗って

「~良くなろう」としたり、「改善しよう」としたり、「非難したり」「レッテルを貼ったり」「良い方向に変えようとしたり」「それは私ではないマインドだ」とかいって逃避したりしないこと

即ち「~なる」「~する」と言うマインドの働きそのものに覆われないで

「見るものは見られるものである」であるに留まるのだ

何もしない、何も求めない、何も願わない、何処にも行かない

今此処にじっとしているのだ

その自分からの解放は

ここから始まる

とそのようにクリシュナムルティーは言われる

そこに沈黙が訪れるという

そしてその自己からの解放が有るとき

他人はもはや他人ではなく

私自身であろう

他人を自己から分離していると錯覚し続けていたものこそ

そのマインドそのものであるからだ

そのとき、貴方は私であり、そこに無上の至福があると言われている

貴方はいない、そして私もいない、有るのは愛であり

もはや私たちは分離していないのだ

貴方が自分と分離して実在していると錯覚しているのは、自分が真我に至っておらず、従って自我(エゴ)の働きである、「良くなろう」「~しよう」の働きに囚われているからだ


何処にも行く必要はない

今此処にあるだけでいいのだ

答えはすでに今此処にあったのだ

【2007/08/04 06:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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