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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
覚醒とは
覚醒とは何でしょうか
言葉による意見や解説ではなく

真実の自分を正しく見てみたい

今、自分は覚醒していないこと
自分は分離性であること
自分は自分を個人であると錯覚していること
自分の知覚は全て二元性に囚われていること
従って体験も経験も分離性であり覚醒していないこと
自分はマインドそのものであることしたがって覚醒していないこと
自分は死後も継続してしまうこと、これはこの個別性の継続であり腐敗であり、覚醒ではないこと

自分はこの個別性の人格があると思い、また他人の中に、同じようにこの人格や個別性を見ている、また霊界の個別性の人格を見ているこれは、全く覚醒ではない
覚醒していたら貴方は私であり
自他の区別は無く、一つであるはずである

私は貴方の肉体の死を悲しんでいるほど、貴方を個別存在と見誤ってしまっている
それは自分のことを個人であり、自分のことを人格と錯覚している証拠であるとおもう
自分とは分離した人格、個別性であると錯覚している、従って私はこの邪悪な二元性と分離性それ自体であり、全体性に覚醒していない
私の内面は愛に溢れ、法悦に溢れ、全てが私と言う全体性ではない
従って覚醒していない
覚醒とは
このような自我が本当の自分ではなく、実際は自我は、個人は人格は存在していなかったことに気がつくことだとおもう
「私はない」と言うことの祝福に、歓喜に、愛に震えることだと思う
観察者は存在しないこと
見るものは存在しないこと
輪廻の転生は私ではないことを

覚醒は目覚める
気づきと思う

しかし自我は、個人は人格は、輪廻転生している主体は覚醒ではない
覚醒が起きたとき
その自我は存在していなかった、夢であったことに気づくのだとおもう

この他人を自分とは別の個人だと思うこと
他人が自分とは別の人格や個人と思うことは邪悪だ
それは虚偽だ、覚醒していたら貴方は私だとおもうはずだ

この他人が私とは別に人格や個人として存在していると思うことが、そのことが
覚醒していないことの証拠だと思う

マインドは覚醒しない
自己は覚醒しない
覚醒への道もないし、方法もないし、段階もない
覚醒は今、此処に既に覚醒している
時間の認識自体が覚醒ではない
覚醒には過去もなく、未来もないとおもう

時間はマインドが作り出したのだと思う
自分と他人が別々にあるという錯覚と一緒に

覚醒はやってくる
覚醒は起こる
私達の意識の座に
それは、起こるときに、必ず起こる
私達が努力で接近するのではなく、それは必ず起こる
既に覚醒している覚醒が覚醒するのだと思う

「成ること」は「在ること」にはならない
良くなることは良きことの否定である
クリシュナムルティーの言葉である

覚醒することは、覚醒の否定である
自我は真我に成らない
自我は存在しない
そもそも自我は存在しないことに
気がつくことが覚醒であり
恩寵だと思う

ただ今の現状の私は
私は覚醒していないことにすら覚醒していません
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【2006/12/24 22:40】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
甲田さんへ
甲田様
返事が遅くなってすいませんでした
パソコンの調子が急に悪くなり、いきなり電源が飛んでしまう症状が出て全く出来なくなりました
私もこのところずっと、思っていることは
自分も含めて私達個人の意識ということは
実は個人ではなく、脳を通じて起こっている個人という意識作用は
たとえば
記憶の反応からの自分という感覚であったり
恐怖を体験するときに、よく見るとその恐怖を感じている自分はその恐怖が二元性から生み出された観察者であり
恐怖自身の創作物です
ですので、観察者は
本当の意味の私ではないことが私には痛感されます
また私の中に沸き起こる欲望や願望も実は記憶をベースにしての反応に過ぎないこと
また
その反応たるものも、条件付けられた頭脳を介在しての反応であること
そして知覚にしても、その知覚自身が条件付けられた頭脳を介在しているので当然に二元性そのものであり、おそらくは正しくあるがままを見ていないことを感じます。

それと日頃の生活の中で、これはワサナだと思いますが、心的傾向の強烈な情念や思考や想念が意識に昇ってきます
これらは条件付けられた頭脳が作り出した想念形態に過ぎません
主体と言うにはお粗末な
単なる条件付けられた頭脳の結果、その頭脳を経由したその創作物です
カルキのダサージが言うように
「私達の内面は非常に多くの個人達がいて、しかもそれを統括しているものはいない」
と言うことがこのところ痛感しています
私達の意識の座は真っ白で鏡のようなのに
その意識の座は認識も出来ず、知覚も出来ませんが
それを
被っている思考や、感情や想念達が条件付けられた記憶というものをベースに有りもしない私という個人を作り出し
そしてその想念と肉体を同一視している姿がハッキリと分かります
それらは決して本当の意味で私でもないのに
それらの頭脳の条件付けを通過してきた知覚や体験や想念が
私というものを作り出しているのだと
いま、感じています
私は、
自己は
この意識は
この知覚は
この思考作用は
そして
自己は
個人は
自我は
この頭脳の条件付けで作られた結果です
私は想念です
私は単なる外部からの条件付けのマインドが作り出した記憶と
その条件付けられた単なる反応です
マインドというものが、それが記憶にせよ、ワサナにせよ、知覚にせよそれ自身のもつ反省機能から二元性を生み出して
見る者と見られるものの分離と言う錯覚を生みだしたのだと
思います
即ち
自我と自己というものを作り出したのです
それは偽我ともいいます
それは錯覚でもあります
私はそれらの私ではないと信じます
私は私にとっては
未知であり
知覚不能であり
体験不能であり
認識不能です
私が
知覚する私は
知覚されるものが生み出した錯覚だと思います
私が認識する私はというものは
認識できると言うことから
それは未知なるものではなく
二元性の分離性の領域であり
それは観察される記憶が作り出した条件付けられた反応です

此処までしか
私は分かりませんが
このいま甲田さんへメールを書いているものこそ
単なる頭脳の条件付けが作り出した
想念

それが私です

私は存在しないのだと思います

上江洲義秀先生に関しては
真我に到達した人が
私の近くにいるだけで

私は恩寵を受けています
実際の話、本当の真我が今
上江洲義秀先生を通じて顕現している
ことはもの凄いことです

大変なことが起きているのです
そのように
私には思えます
有り難いです
この滅多に訪れないチャンスを生かさない手はありません
【2006/12/23 11:19】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
宗教の指導者や神やグルの批判は判断はやめよう
上江洲先生はあらゆる、関係者の方を批判したり、避難したり、判断しません
良いとか悪いとか
偽物とか本物とか言いません

判断し、善悪を言っているとき
私達は正しく見ていないことに気がつきます

正しく見ているとき
私達は非難せず、批判せず、善悪で判断せず
愛で包んでいるはずです
そのとき全体性の認識の中で真実の智慧で内側に
全てがあり
そこで
あるがままをあるがままに見ていることが出来るはずです

そのとき
その愛の中で
その愛そのものが、私達の非分離性の認識の中で
全く新しい「その見方」を教えてくれるはずだと思います

私達が天使や悪魔、善と悪の勢力などがあるとする
間違った二元性の捉え方で、宗教の指導者を見ていることが
一番の問題だとおもいます
その神やグルの判断やレッテルを付けたり
それを正しいとか間違っているとか言う事自体が

また悪魔やブラックの勢力の事を
外部にある非難する対象として
見ていることの
そのこと自体が
一番の問題なのです
それこそ
マインドの陥穽に嵌ってしまったのです

ですから
私達がこの二元性を脱却したとき
そこに、
今まで未知であった「眼」が開き
そして
全く
思いもつかない
新しい、世界への見方が存在することを
教えてくれるはずです

ですので
まず始めに
私達は自分が見ていないこと
私達が見えないことを知るべきだと思います
【2006/12/17 19:10】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
私が行為しているのか、私が生きているのか
私が行為しているのか
それとも、
行為が、この意識の座と肉体に起こっているのか

私が思考しているのか
それとも、
思考が、この意識の座にやってきているのか

私が独立した主体でパーソナリティーであるのか
本当に
この分離性と二元性である、この私は
独立した主体なのか
人生を生き、行為しているのは
この独立していると思われているパーソナリティー
であるのか
この人格と個人が行為して、人生を生きているのか
それとも
この人格と個人は、この分離性の意識として意識の座にやってきているのか

それらは
外部からか
外部からこの意識の座にやってきているのか

行為が
思考が
感情が
出来事が
努力などの行動や
内面の全てが

私にやってきているのか

そのやってきている
思考や感情や、行為や、出来事や、努力を
それらを
内部で
知覚している主体、認識している主体、体験している主体
見ている主体、記憶している主体は

本当に主体なのか
それとも
見られるものが分離して生み出した偽の主体なのではないか

分離してみている私は
分離性が生み出したのではないか
私は分離性を拒絶する
私は二元性を拒絶する
しかし
この拒絶している本体である、いまの意識である現在の
私すら
この主体は偽の主体なのではないか
単なる客体である
もの
それらである。

感情や思考や想念や出来事が生み出した主体
条件付けと、条件付けられた記憶の一部と、条件付けられた

認識システム
知覚システム
体験システム
が生み出した

虚偽の主体
それが
いま
主体を覆い
意識を覆い
観照者を覆っているのか

私は
いま
この頭脳を経由している、今の意識である私を疑っている
それらは、確かにいま私として意識されていて
人生を生きている
しかし
それは「私」ではないと断言したい

この私は外部からと内部からの条件付けで生み出されている
偽の私ではないか


私には「私」は生まれていない
しかし
真の「私」が生まれていなくても
生まれていても、
それにかかわらず

私は決断した
断じて、この私は「私」ではない
この私は、偽の主体だと

私はそう結論づけた


今これを書いている私こそ
偽の主体であり
外部からの条件付けと
頭脳や魂からの内部の(これも外部であるが)条件付けの
結果によって生み出された
私という単なるマインドから派生した意識である

私は願う
心から願う

もし
出来ることなら
私に、この意識という座に
偽の私でなく、真の主体が、「私」という意識が
繋がって欲しい

私の欲望はこれである
私の意識の座に
この「私」が在って欲しい

願わくば
この意識の座に
全体性の在らんことを
非分離性の在らんことを
非二元性の在らんことを
在るものが在らんことを

御心ならば
この願いを
叶えてください
【2006/12/17 19:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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