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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
●バーナデットロバーツの体験の諸相●
●バーナデットロバーツの体験の諸相●

■*■

私の意識の旅は、
永遠に虚無の中に引き込まれて、もとには戻れないという恐怖から始まった。


■*■

11歳のとき、授業に退屈して机に頭を伏せて空白に入ると、
記憶がすべてなくなるようで、自分が何を着ているかも両親の顔も、
自分自身の顔を思い出せなくなり、
自分の頭があるかどうかを手で触って確かめたことがあった。
その時、手が異常に重く、身体の力がすっかり抜けてしまった。


■*■

深い静寂の中にいる時には活力が低下し、
沈黙に飲み込まれないように努力をしたものの、
最後には疲れ切って座り込み、そのとたんに意識を失ってしまった。
その間は、数分から数時間に及ぶこともあり、思考も感情もなく夢もなく、
自分の周りも意識せず、すべてが停止した無である。


■*■

ある時、ふと内部に意識をむけたところ、
私の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽだった。
それを知った瞬間には、静かな喜びがあふれて来た。
そして身体が非常に軽くなったように感じたので、
足が地についているかを確かめたほどだった。


■*■

しかし別の時に、この喜びを再び求めて内部を見つめたところ、
突如としてこの空虚が四方八方に拡張して広がり始めて、
私は爆発しそうになった。
まるでエレベーターで何百階も落ち続けるような気分を胸に感じ、
生きている感覚がなくなってしまった。

そして落下し尽くしたとき、私には内部というものがなかった。
そして生の感覚を奪われたまま、今ここに、ただ立ち向かうほかなかった。
身体に異常はないのだが、何かをしようとしても、
動作がひどく機械的で、すべて条件反射で動いているようだった。


■*■

万事を管理する自己がなければ、通常の自衛機構も働かなくなり、
外からの圧力をすべて肉体的な力で受け止めなければならなくなる。


■*■

だが、何も考えず、何も知ろうとせず、活力を欠いたまま、
ただ生きるための、何の満足も伴わない活動によって、
その体験の強烈に受け身だけでいる危険を避けることが出来ることが分かった。


■*■

活力とは通常は自己保存のためのものであるが、
私はそれなしに生きる方法に慣れてゆくしかなかった。


■*■

私は自分が存在しているかどうかも確かではなかった。
私の身体のほかに唯一残っているのは、「見ること」だけだったが、
これすら私に属しているとは思えない。
ただ、それは、位置としては頭の少し上の前方にあるようだった。


■*■

見ることだけが私の生活となり、全くそれに依存していたものが、
あるとき、それすらも、もう無くなってしまった。
どこを見ても、恐ろしい虚無が侵入し、生命を奪ってゆくかのようだった。
生命が急に抜け落ちて、その後には死と崩壊しかないのだった。


■*■

一般に自己と呼ばれるものは、この絶対無を見ること、
生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいると理解した。


■*■

また恐怖こそ、人間の営利の源で、
それを中核として自己が築かれているので、
恐怖と自己とは同じものだと言ってもよい。

しかし、私には恐怖すら起きなかったので、逃げることも出来ず、
対抗する手立てもないままで、虚無を見守り続けるという、
生きた心地もしない状況におかれていた。


■*■

あるとき、どうなってもよいから、それと直面しようと決心した。
始めのうちは、私の反応は鳥肌が立ったり、ぞっとする程度だったが、
そのうちに、頭に火がついたように熱くなり、
目の後ろが強く押されて目がつぶれてしまうそうに感じた。

目の中にいっぱい星が見え、足が冷えてはじめ、
それは次第に頭を除く全身に及んだ。そしてとうとう、痙攣をおこして、
私は激しく動揺したまま背後に倒れてしまった。
死ぬのなら死んでもよいから、もう終わりにして欲しいと思った。


■*■

無限の時間のように思われた静寂ののちに、気がつくと、
それは去っていて、ふと振り向くと、30センチばかり離れたところに
黄色い野草が見えた。

その時、その花が、まるで全宇宙からの歓迎であるかのように
微笑んだのだった。

私は目もそらせず、身動きも出来ずにその微笑の強烈さに耐えていた。
その後、しばらく私は、身体が溶けてなくなってしまったように感じた。

すべてが消滅した後には、ただ喜ばしく暖かい、
何か完全に主体的とでも言えるような微笑が残っていた。
これを言葉で表現するとしたら「溶解」としか表わせないものだ。


■*■

『悟り』は、あまりにも単純明瞭で全く対象化出来ない。
今まで見なかったのが、むしろ不思議なぐらいで、
しかも『悟り』は自分の力で見たわけではない。
むしろ、見せられたと言ったほうがよい。

微笑が向けられた未知の対象は、その主体と同一であり、
それがまた微笑自体でもある。


■*■

無自己の状態だけからは、究極の至福には到達できない。

第一の過程では、主体のない意識状態にあり、
すべての存在がひとつに動的に結ばれ、永遠で聖なるものに見えた。
私はいつまでもそこに留まりたいと思ったが、
これはまだ純粋主体性ではなかった。


■*■

第二の過程では、客体もまた虚無に飲み込まれてしまう。
第一の過程での純粋客体性は、
ここでは、全存在の絶対無に置き換えられてしまう。 
ここで知られるものは、意味を全くもたない、虚無的な外界のみであり、
その上、意識すらも消えてゆくのではないかと思うこともあった。

そして、無意識になるならば、むしろありがたいのであるが、
最低の生の状態に身動きも取れないままの状態が続いた。


■*■

そして、最終段階は、「向こうから」『悟り』が姿を表した。
そこには、それ自身を見る目だけがあり、
したがってこれは「誰」に向かって示現されたというものでもないのである。


■*■

この目は、意識ではなく、
ただそこにあり、それしかないものとして、自身を見ているのであるために、
私はこれを純粋意識ではなく、純粋主体性と呼んだのである。

これは、内省によって知られる(意識される)ものではないからである。
これは、一致によって知るという単純な知り方で、
人間以外の万物はこれによって自己を知るものであるから、
存在世界の中で、特に異常なものなのではない。


■*■

私の旅が終わったあとでは、
まったくの現在のこの瞬間にしか生きることは出来ず、
心はその瞬間に集中していて、過去や未来を思慮することがない。

観念は別の瞬間に持ち運ばれず、他の観念と照合もされず、
心は一点の曇りもなく既成観念が入り込む余地もない。

要するに考えることと為すべきことは、常に目前にあり、
何を考えるか、何を為すかという事で迷って停滞するということがないのである。

純粋主体性は、全存在が集中して張り詰められた
「今」へのまったき覚醒を与える。


>●悟りの後の生活●

■*■

心が完全に沈黙したままでも、他人の言うことに耳を傾けることは出来た。
また、思考を要求しないような本ならば読むことができた。
沈黙した心のまま、会話もできることが分かった。

ただしこの内容は、はじめは実際的な事柄に限られていて、
しかもごく短いものであったが、
次第に楽に心の外での会話が出来るようにもなった。


■*■

物事は全体として見えるだけで、しかも、
それも何かをしなければならないような、特に緊張した場合にかぎられている。
これは個々のものに焦点を合わせられない子供の知覚に似てる。


■*■

そして、以前に好きだった音楽は雑音となり、
自然音と沈黙が私の楽音となった。
当然生活は、単純化され、美がなければ何かを特に珍重することもないので、
実際的な用途のないものを所有する意味もなくなる。

何かが特に美しいということがなければ、すべてが美しく、
すでにその美の一部となって所有されているのであるから、
何も所有する必要がないのである。


■*■

自意識の喪失とともに、身体感覚もある程度失われたようだ。
変容の時期にあった時には身体が絶えず溶け去るように感じたのもそのためだろう。

しかし、やがてはこの状況に慣れ、
身体の訴えをいちいち聞かないで済むのである意味では
前よりもよく身体の世話をすることが出来るようになった。

肉体的苦痛は感じるのであるが、疲れたとか、休みたいとか、
楽になりたいというような、気持ち、つまり意志がないのである。

また、それまで生きるために必要だと思っていたもの、
つまり自己や情意や活力が、実は必要ではないことが理解された。


■*■

純粋行とは、行為者も行為の対象も不可知であって、行為のみが知られる。

そこでは、行為とその対象と、その内容が皆ひとつであり、
知ること、見ること、為すことが、相互に区別されない
単一の「行」をなしている。


■*■

自意識なしの思考は、現在の瞬間に結び付けられた、
実際的なものばかりである。

普通の思考は、心が外と内、過去と未来を往来し、
個人的な感情や意向に振り回されて疲労しているだけであるのに比べれば、
この思考は必要最低限に局限されたものであり、
各瞬間の目前の明白な事柄に対して、頭に閃くようになされる。

こうした沈黙を伴った行為では、思考がなくなるわけではなく、
ただ自己の影響を受けた曇った思考がないということである。
こうした時、行為は存在と同一なのである。


■*■

純粋行が理解されにくいのは、
人は普通、行為を「誰が」「何のために」「何をするのか」、
という面で考えるからである。
しかし自己がなければ、そういうものはなく、
行為と存在が一致したときに、純粋行となるのである。


■*■

基準がなく、努力も選択もいらない生活、
相反するものを釣り合わせることもない、非相対的なこの生では、
情意(あるいは思考)の働きで、どちらかよい方を選ぶのではなく、
ただ、そこにあるものを、そのまま受け取るだけなのである。


■*■

今の瞬間だけで満たされているので、過去や未来を思う余地はない。
基準がなく、選択の必要がなければ、
今の瞬間の外に踏み出ることはあり得ない。


■*■

この生は、相対性からくるような思考の働きからは無縁な、
沈黙という意味での静寂の中に包み込まれている点では、
閉鎖的とも言えるが、従うべき基準もないために流動的なものでもある。


■*■

また、人徳という意味では、後退したと言う言い方も出来るだろう。
つまり、徳の遂行の必要がなくなったのである。
徳でも悪徳でも、それを行う意志そのものがもうないからである。


■*■

意志がなくとも、知性の働きは妨げられないため、
意志と知性は本質的には結び付けられたものではないとも理解された。


■*■

今の瞬間に生きる者にとっては、
何をどう感じるかという事は問題にならない。
時間的にも、内的にも、前後へ揺らぐ余地がないために、
努力や選択などの、どんな動きもあり得ない。
各瞬間は、それに応じた行動を伴っていて、
考えたり感じたりする必要がないのである。


>●悟りについて●

■*■

自己がなくなれば、『悟り』だけが残る。
時にはそれは非常に強烈にもなるが、
何か異常なものではなく、自然で平明なもので、
どこを見てもあるという意味では、むしろ通常のものなのである。


■*■

『悟り』が経験されるのは私の内の客体としてではなく、
『悟り自身』の純粋主体としてである。
もしも、そこに意識が残っているとすれば、
それは『私はそれである』と言うほかないものである。


■*■

「悟りはどこにあるのか」という問いは、
「悟りとは何か」という問いと切り離すことができないものであり、
『悟り』の絶対主体性を見た者には、すぐに答えられる。
つまり、どこと言えば、いたるところにあり、
何かと言えば、ありとあらゆるものなのである。


■*■

純粋主体性とは、何かを知るときに、
知る者、知られる対象、知る行為そのものが、皆同一で分離していないことである。

それは、目それ自身を見る目と言ってもよく、
どこを見てもそれ自身(悟り)しか見えないのである。

そこには、内も外もなく、
その目が何に属していているかを問うのは無意味である。

その問いに答えたとしたら、
そのとたんに知る者と、知られるものに区別が起きるからである。


■*■

『悟り』の純粋主体性は、どんな対象にも依存していない。
しかし通常の主体性では、知る者と、知られるもの、
主体と客体は分離していて、自己をも含めて、
あらゆるものが客体として(分離したものとして)意識される。

したがって、普通は主体が自分自身を主体として見ることはあり得ない。
主体は、心が心自体を反省する機能によって客体化されて始めて知られ、
こうして、自分自身の意識と感情と思想を自覚する。


■*■

誰でも、時には主体としての自己に触れることは可能であるが、
それは自己の客体化の機能が止まっていて、
自分の思想や感情、そして意識そのものさえも意識されない時に限られるのである。

しかし、その出会いは、心に留めることはできないので
一瞥されるのみである。
たとえ一瞥でも、この反省機能の停止状態で出会うのは、
主体的な自己という一種の『虚無』で、これを私は『無自己』と呼ぶ。


■*■

現在の瞬間には、自己に関連する何ものも出て来ない。
『悟り』自身を見る『目』は、
すべてをこの瞬間に結び付けているために、自己を必要としないのである。

そこに残っているのは、
自己が始まる以前からそこにあったものなのである。


■*■

『悟り』では、通常の意識の場合のように、多くの対象を見るのではなく
客体はただ一つで、それが同時に主体でもあるのだ。

したがって『悟り』は通常の意識の客体のように、
時によって見えたり、見えなかったりするようなものではなく、
生活の中でも、いつも同じままである。
つまり純粋主体性の状態でも外界の事物は知られるのである。

ただ、その知り方が通常と違う。
客体を知ることが、同時に主体を知ることになる。
従って、相互に分離した事物を見る場合でも、
その目は、それ自身を見ているだけなのである。

たとえば、木を見る場合には、
その木を見る者は私ではなく、見られるものは、単なる木ではなく、
どちらも『悟り自身を見る目』の「二つの様相」であり、
私はこれを「純粋主体性」と呼んだのである。


■*■

『悟り』は、直接に体験するしかなく、
観察によって分かるものではない。
そこには、観察されるものは何もないからである。


■*■

人は、自分の中に見るものだけを他人の中に見るのであり、
内側に自己がなければ、外側にも自己はないのである。
従って、非相対的な純粋主体性にとっては、他人というものがないと言ってもよい。


■*■

絶対無というものは、知によっては捕らえられないが、
この絶対無こそが『悟り』であるというところに、
最後に到達するのが神秘家である。


■*■

『悟り』は無視すればするほど注目させようとし、
注目しようとすればたちまちに姿を消してしまう。
真の意味で『在るもの』、『悟り』は見ることは出来ない。

『悟り』は対象になり得ず把握できず、また主体にもならない。

その原因は、『悟り』自体が非相対的なもので、
自己意識がないために、自己を意識するような通常の心とは無縁であるからだ。


■*■

去来するものではない『悟り』を、あえて見る秘訣があるとしたら、
『悟り』に注目しようとしないことである。

悟りの中では、
見るもの、見られるもの、見ることの3つがすべて「一つ」である。


>●通路としての瞑想のプロセスについて●

■*■

この通路を正気をもって通り抜けるためには、
平衡のとれた大人の条件づけられた心が必要である。


■*■

しかし、この通路は結局は、絶望も狂気も超えたところにある。
なぜならば、そこには狂ったり、絶望したりする何者もいないのであるからだ。
もしも自己があれば、その場で狂ってしまうか、逃げ出そうとするだろう。

普通に言われる絶望とか、憂慮は、
この不可知の重圧に比べれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎない。

だが、不可知の重圧は、防ぐ手立てもなく、
第一、それを防ごうとする者もいないのである。


■*■

初期段階では、自省つまり心がそれ自体を省みることが出来なくなると、
自己の活力と動きは停止する。

するとなんの感情も起きず、過去の記憶もバラバラになってしまう。
その時には、ひとつひとつの小さな事件が現在の時の全体となり、
しかもそれが過ぎればそこには連続性もない。


■*■

こうした沈黙(悟り)は、
自省・内省と自意識が消え去った後に残るものであるために、
自己の努力では達せられない。


■*■

静寂と虚無が、私のみならず、
万物におよび、特定の所在を持たないことを見て、はじめて、
この偏在する静寂こそが『悟り』であると理解した。


■*■

特に強調されるべき事は、
この旅は、最後には存在全般に渡る虚無で出会わなければならないという点である。

希望も信頼も奪われ、意識するものも無意識のものも含めて、
ありとあらゆる経験と観念が一つ残らず滅び去ったあとに、
突然『悟り』が現れる。

つまり、究極の実在なしに生きることに十全に慣れて、
ついにはその状況を受け入れるほかなくなった時にのみ、
『悟り』が顕現するのである。


■*■

旅の最初では、無自己を感じても、それは自己に対する相対的な無自己である。

しかし、やがて自己と無自己の隔たりが大きくなるにつれ、
自己と無自己の対立も消えて行った。
したがって、無自己の沈黙すらも最後には感じられなくなった。


■*■

瞑想の第一段階が、「自己から無自己へ至る」とすれば、
第二段階では、「無自己から到達するのは、特定のどこでもなく」、
ありとあらゆるところと言ってもよいだろう。

それはまた、相対的な沈黙から、『悟り』への絶対的な沈黙への道と言える。

しかし、これはもともと言葉で表現し得ないことであり、
『悟り』が知られる道は、
『悟り』が『悟り』自身を知るよりほかにはないのである。

純粋に非相対的な次元では、
『悟り』は自分自身だけを見る『目』なのである。


■*■

そして、旅が終わると『悟り』だけが、唯一の現実となる意識の状態にあり、
個々の何ものにも注目することは出来なくなる。
認識は、まず、一なるものが見え、それから他に及ぶ。


■*■

究極の実在は、至福や幻視や変容の瞬間のような、何か得意な体験ではなく、
微笑のようなごく単純なものであり、
自己がなくなったあとに残っている『悟り』自身であるとは、
経験者でなければ理解はできないものだ。

たとえ、至福を対象としてでも、何かを期待するという事は、
自己の特性である。
しかし『悟り』はどんな意味でも(期待や観察の)対象とはなり得ない。


■*■

人が自分自身を見ていることで法悦に入るなどという事があろうか。
しかし実は人は究極の実在をいつも目にしているのにもかかわらず、
それがあまりにも普通で平凡なので、
他にもっと心を引くもの(神や宗教や神秘体験や光明)、
つまり「自己」を満足させるものを求めようとするのである。


■*■

すべての宗教が目指すものは、
世界や自己や神についてのすべての概念や、体系の外にあり、
それは信じることから、見ることへ転じた時に始まる。

『悟り』は直接に見るほかはないが、
見たところで知性によっては把握できない。


■*■

ただし、『それ』を見ることが終点なのではなく、
『悟り』の充満の中に溶け込むことがもっと重要である。
大気の中に蒸発するかのように、
いたる所に行き渡るということである。


■*■

もしも洞察を以後の心の働きに生かしておきたいのならば、
その秘訣は、それを取り上げて教理化しないこと、
それに考えを向けさえもしないことである。
洞察は来ては去ってゆくものであり、それを留まらせるには共に流れてゆくしかない。


■*■

疑問が生ずるのはしかたがないとしても、
それに早まった結論を出さないことが大切である。
経験を評価しないことではじめて、その真偽が明らかになる。

偽りは自然に脱落して、もともと去来するものではない真は、
そのまま残るものである。
つまり、真理は経験が消え去った後に残っているものである。


■*■

こうした変容を妨げているものは、外界の事物そのものではなく、
その事物について人間が考えることである。

もしもその考えがなければ、
そもそもこうした変容は必要がないのかもしれない。


■*■

これが究極のものだとして何かにしがみつけば、
生の流れに逆らうことになる。
ある時に本質だったものは、別の時には意味を失うものである。


>●自己について●

■*■

自己の存在を知るには、
心がそれ自身を対象として見るという自意識は必要ではなく、
それがなくとも、思考や感情が起きてそのまま意識される、
と思っていたのは間違いだった。


■*■

自省の機能は意識されない場合でも無意識の層で働いているが、
いったんこの自省の機能が失われれば、自意識がなくなるばかりでなく、
無意識面でのその働きもなくなる。

つまり、意識の主体を見ることが出来なければ、
その主体があるという意識もない。

内省が不可能な時には、
物事に価値や意味や目的を付与することが不可能である。


■*■

人が生まれて自己が発達する段階で、
すでに無自己は予定されているように思われる。

つまり、人の前半生では自己保存が優勢であるが、
後半生では、自己放棄が優勢になる。


■*■

自己と『それ』の結合に執着するのは、
一種の不信であると言ってもよい。

この旅は、自己意識から宇宙意識への移行ではなく、
また全体と自己との同一視の道でもない。


■*■

客体化なしでも、自分を主体として知ると主張する人もいるかもしれないが、
それがあり得ないことは、私が経験した事で明白だった。

自己を客体として見られなくなってしまうときには、
主体も意識できなくなる。

意識にとっては、その主体は無に等しい。

だが、もしも何かを意識したとすれば、
それは客体となってしまっている。


■*■

既知の自己がなくても意識があれば、
その主体があると論理的には言えるかもしれない。

だが、単なる知的な要請として考えられた「自己」が、
現実に知られも感ぜられもせず、働いてもいないとしたら、
そんな自己に何の意味があるだろうか。


■*■

自己を意識することは、
「自分が生きていることの活力の感覚」に支えられなければ、
空想と同じように無意味である。自己とは単なる意識の対象でなく、
自分の活力、意志、衝動の根源的な感覚であり、
それが知の働きと結び付いて「これが私だ」という主観的な確かさに
なるのである。


■*■

生の活力は「これが私だ」と意識する以前には、
単なる肉体の活力と区別できない。
内省の機能により、自意識が発生して始めて、
その活力を自分のものと思うようになる。
そして、情意の働きの本質は「自分が生きている」という感覚にある。


■*■

自己とは、人間の思考を遂行しているものというよりも、
その根底にある生の活力の意識にほかならないのである。

したがって、認識や感情の働きを抑えたり変化させても、
自己を超えるわけにはいかないのは明らかである。

内省の機能が働いているかぎりは、姿を変えた自己が現れるだけで、
この機能を自分で止めることは出来ない。


■*■

現在は、人間が生まれてから死ぬまで、あるいは、死後でさえも、
自己が常に不可欠のものとして扱われている。

こういう固定観念に囚われているかぎりは、
自己を超えた次元に目を開くことは出来ないだろう。


■*■

自己を保存しようとする力と、
自己を絶滅させようとする力の二つのシーソーの力の中で、
人間の根本的な自己との葛藤が起きる。


■*■

自己というものは、個別性のために必要なものではなく、
自己を失った後でも、その者の個性は残るのである。



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【2006/04/30 22:53】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
自分の魂の周波数か
精神世界は現在ジャングルの様に多くの情報があり
それをスピコンの様に、陳列台、宜しく、まとめ
来て下さる人に、全て紹介するのも一つの方法だろうと思う
このジャングルが整理され
全てが等価値として扱われ
全てが仲良くなるかも


私の場合

自分の魂の周波数かもしれない

最初は、宇宙の英知が凝縮していて、素晴らしいと、アジス・クリストフをしっかりと読んでいたら、
突然にラマナ・マハラジなどの、私が一番自分の皮膚の様に感じている方々の本が、理解できなくなってしまった。

勿論一時的な現象だが、自分とはアジス・クリストフは、系統が違うのかもしれない。
読んでいて、自分のハートが共感して涙が出るような感動が乏しく、知性は感じるのだが何かが感じられない

それに、似たことはチャネラーの系統でもバーソロミューはとても親しく感じるのに、バシャールはまるで入っていけない、拒否反応がおきてしまう、本も買ってはきたが、どうしても読むことが出来ない。


宇宙系のものは、
メルキゼデクはなにか少しは自分とは系統が違う気もするが、そんなに違和感はない。

それに引き替え

シリウス関係の本を読んだときは、もの凄くいやな現象が起き、皮膚の周りが、とげが刺さり放電するような、又は有機体を守ろうとするのか、体中が放電した、これは明らかな拒否反応だと思う

まだこれ以外にも色々あるが、自分の今までの魂の系統とか、魂の共振の問題だと思う

自分の魂のふるさとと故郷が違うのだと思う
いや、よく分からないが

それに引き替え

クリシュナムルティー
ニサルガダッタ・マハラジ
ラマナ・マハラジ

はもの凄く
自分にぴったりくる
【2006/04/30 07:16】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
輪廻転生とは
これはあくまで私個人の推測であることを最初にことわっておきます


こういう事は、その自分のレベル以上のことは分からないのです
-ですから霊界通信や体外体験をしても、その情報ソースや体験は自分のレベルと同調してしまうのです
そういうわけで知識や体験で得ることは真実ではありません
体験すらがそうなのです
自分のレベル以上の体験はできないのです
全容の理解は
死(肉体の死は死ではありません、私というこの個別性の本当の死です)を通して、真我の体験のみが
真相は自ずと、非二元性の中で開示されるでしょう-
霊界通信などは通信してくる、その方が、いくら全てを理解したと言っても、その方のレベル以上は本人
にも分からないのですから


以下私の推測です

意識の座はどのようにして肉体に宿るのでしょうか

わたしには、死後の世界でなく、死後の世界から再び転生する仕組みの方が興味があります

概念やマインドではある一定のことしか、明らかにならないと思います、それを承知の上で読んで下さい



転生に際して、

始めに認識しなくてはならないのは、概念の整理です、誕生は決して高次のレベルのシステムではないと
いうことです。
この物質の現象界に生まれたこと自体が、非常に私達が未発達で低次であり学ぶべき多くのことがある
故に転生してきたのです。
高次である場合は転生はしません。

①受胎の段階で確定(預託)されると思われるもの

 Ⅰ観照者(意識に昇らない真の主体でコーザル体・若しくは魂といわれるもの、この現象界で誤った私という人格を成立させている責任主体で、このコーザル体のなかに幾多の前世で積み重ねた記憶や高次身体が収められている)がどの肉体に宿るかが決定され預託される

      観照者に収納されている身体・機能とは

Ⅰ:客観的な記憶(主観的な記憶はワサナや想念帯にあるといわれている)。

Ⅱ:真性サイキック体(よく言われているアストラル体は肉体を基盤にしてで作り出された感情等の機能を司る身体で、この真性アストラル体ではない。
これは幾多の転生を通じて徐々に作られていく第2身体のことで、通常言われているところの霊界や幽界での生活を終えて転生する際に消滅するアストラル体ではなく、逆に幽界や霊界などで次元を超えて機能できる高次の第2身体といわれ、気づきの段階に応じて形成される身体と言われている、

            
またサイキック体にあるチャクラも同じように各人の気づきで、その気づきのエネルギーで自動的に形成されといわれる、開花されると言われていて、人為的に開花させようとしたり、エネルギーを上げようとすると間違った結果を招くとも言われている。
  
            
( 各人生を通じて形成されるこの高次諸体はまだ卵形で肉体と同じ形態にまで発展していない、また発展した場合はサイキック体で幽界、霊界での自由が、ノエティック体でそれ以上の階層と他の天体の住民とのコンタクトと移動が自由になる、さらには分身などが可能になるといわれている)


          
Ⅲ:真性ノエティック体(これも同じように俗に霊体といわれているが、幾多の転生での気づきのワークからのみで形成されていく身体で第3身体と呼ばれている、この身体が完全に形成されると分身やテレポテーションやテレパシー、物質化現象、次元や空間、時間の移動、又他の太陽系などのへの移動がより可能とされる)


          
Ⅲ:第4身体
これはよく分からないが、大きさは空間の概念を超えて拡がり、人類に影響を与えるとされるが、各種の身体から発せられるオーラではない 、オーラは特定の色と形と香と音を発していると言われている



Ⅱ:このときからこの肉体独自としての意識と記憶は発生する

心臓の中核に生命の本体である真我はまだ宿っていないが、宿るべき特定のスピリットの5つの身体は、生まれるべきこの胎児に預託されている状態である、即ち生命(肉体の生命ではありません)としては母親のいのちのみであるが、有機体としての機能は母親とは別の存在として機能し始めている


Ⅲ:その特定のスピリットに関わる、多くの過去の人格であるワサナ(五蘊)や、カルマが引き寄せられ、肉体の形成に関わりはじめる、各種の遺伝的条件が形成され、特質が決定するワサナやカルマはサイキック体の特定なチャクラに引き寄せられる、取り憑き、自我群を形成する。

肉体脳を使用するので、意識的には持続した統一性ある人格と錯覚されるが、多くの人格群がパーソナリティーを形成している。

Ⅳ:エネルギー体(エーテル複体)の形成が始まる、このエネルギー複体が、肉体の生命の維持と発展をとりまとめていく

Ⅴ:その特定のスピリットの一生の明細な運命の設計図が肉体に入る 。そして条件付けられる。



②誕生時

 
Ⅰ:胎児が誕生しての初めての呼吸で、この肉体に入るべきスピリットは前世から引き継いだところの、まだ形成途中のサイキック体、ノエテイック体を収納してこの肉体と繋がる。
   真実の意味で新しい生命の誕生となる。

   
(しかし、このスピリットが完全に肉体に入り、頭蓋内の松果体に完全に、繋がり落ち着くのは7才までかかるといわれている)

   
肉体自身の意識もこのスピリットとは別に存在しているが、あくまで、その意識は肉体に属し、肉体の消滅と同時に死滅する
   
従って、魂というべきスピリットが肉体を離れていても、肉体は自動的にある程度の日常的生活は可能である。

   
入ったとたん(肉体の脳と繋がったとたん)、私達の本来の意識の座であるべきスピリットは、肉体とその脳の中に閉じこめられ、真性の記憶(ワサナの持つ人生の記憶はマインドとしてのその人生の記憶であるが、この記憶とは異なる)は閉ざされ、忘却状態になります。前世は忘却されます。

   
ワサナ(私達が作った過去生の人格の凝縮で、記憶と意識は持っているが、いのちではない想念の凝縮物)とカルマに囲まれた中で、過去を忘却して、この物質界で一から、自分と肉体を同一視した人生が始まります(この脳の仕組みは死ぬまで続いて解けることは在りません)。

   
既に誕生前に、受胎の段階で与えられている設計図に従い肉体と性格が決定され、条件付けられた人生が始まるのです。

   
そして徐々に脳に入ってくる想念帯からのマインドによって、更に条件付けられて現在の虚構の人格群=私、エゴがつくりだされて、その中での生活が始まります。


そしてアストラル・サイキック体のチャクラに取り憑いているワサナとカルマに更に翻弄されます。

それらは全て自分という意識と意志を持っており、この人格の私群として現在意識に意識されます。

Ⅱ:最初のおぎゃーという吸気で肉体の中に生命である、真我がハートに繋がります。

この真我との繋がりが本当の意味での物質界での誕生です
聖なる存在がこの有機体と繋がったのです



「私は肉体ではありません
私はマインドではありません
私は観念です
私は存在しません」

このことが非二元性の対象を待たない気づきから分かったとき
真我とつながります、そして私達の意識が本来の意識になったとき分かります。

この現象界の悲しみの輪廻という、カラクリが虚構であり、この転生という現象も虚像で本当は存在しないことを

そして、私達は本当に自由であることを


しかし、通常はこの地球という低いレベルの星では覚醒はほとんど無く真我からの目覚めはありません

従って、この物質界という現象の世界に、そして地球特有の物質界、幽界、霊界という三界での転生という現象は続いてしまうのです





③肉体の死後

Ⅰ:通常は眠りに陥り、今回の人生で形成された人格(今生のワサナ)の意識状態として目を覚まし、スピリットとしての自覚はない状態のまま、(まして真我としての覚醒もなく)物質界にいるときと、同じようにマインドで形成した人格のままで、自分のステージと等しい親和する階層へと引き寄せられます。
   
   
そして想念形態で物質界にいたときと全く同じような環境を作り出していきます、殆ど変わらない環境なので驚かされます。
   
   
悲しいことに、物質界にいたときと、全く同じ眠りが続いているのに気がつくことなく… 。


   
さて臨終に際しては、通常は呼吸が荒い状態におちいります、それはスピリットが肉体から次の階層で使用する乗り物のアストラル身体に繋がり始め、肉体を維持していたエーテル複体からスピリットに繋がり伸びていた霊的な魂の緒が切断されようとしているためです。

スピリットは肉体と次の想念体であるアストラル体の間を行ったり来たりしています、それがこの荒い呼吸です。

そして、最後の臨終の息を引き取るときの呼気で「ハアー」と吐いたときに、スピリットはこの肉体から離れます。

   
肉体に生まれるときも、離れるときも呼吸と連動しているのです。

   
そして有機体からスピリットは離れます、有機体である肉体はエーテル複体とともに崩壊されていきます。

   
その後スピリットは眠りに陥り、目が覚めると、幽界や霊界での親しい親族や友人達や光の存在達が現れ、その導きで、本人の進化レベルに合わせた、49界のいづれかでの生活が始まります。

   
そして、自分を見ると、自分は若返り25~30才ぐらいの身体であることに驚かされます、そして素晴らしい衣服をまとい(自分が想念で作り出しているので)、何でも想念のままに、実際に、物質よりももっとリアルに、ものが作られ存在している事に驚かされます。
   
   
そして徐々にこの幽界や霊界での生活方法に慣れてきます。
この世界では想念が直ぐに実現します。

 
Ⅱ:肉体の消滅とともに肉体を維持しエネルギーを与えていたエーテル複体も徐々にエーテル界(冥界)にて消滅していきます。(大体7週間で消滅すると言われている)

   
それと同時に、肉体を基盤として作られたシュタイナー達が言うアストラル体、メンタル体(本当は擬似アストラル体、擬似メンタル体で感情体、想念体といった方が適切なのだが)が幽界や霊界での生活の母胎として、魂の乗り物として機能を果たし始める。

 
Ⅲ:スピリットとしての目覚めもなく、真我としての目覚めもないまま、再び眠りに陥り、物質界の母親の胎内にて呼吸と同時に誕生する、又は在る程度、ステージが上がっている場合は、スピリットとしては転生するまえに、再びスピリットの本来の階層である天界にて物質界での人生を再び選択するか、どうかを決定する

 
Ⅳ:他の高級なるブラザーの天体では、マインドが想念で構築する霊界や幽界は物質界と共に存在しない。

    
天界がスピリットの本来の世界である。
    
スピリットがマインドの束縛を離れているため、自由に肉体の再創造や高次ノエティック体を使用し分身を創造できるため、他の惑星や恒星に移動できる。

    
地球のような死後の世界が在るのは非常にレベルの低い惑星の特性とも言える


※スピリット

  
真我の延長であり、コーザル体・観照者等とも呼ばれている。真我が現象界に顕現した永遠のパーソナリティーとも言われている。
  
輪廻する主体であるが、人格ではない(人格はマインドが作り出した観念である) 
  
真我によって誕生した同質のものである
  
良く近頃、写真で撮られている玉響かと思われる が不明
  
真我の現象界の表れであり、マインドに被われ包まれているが、最終的には、現象界の経験を積んで真我に戻る運命である
  
通常スピリットと、この現在意識とのコミュニケーションは、マインドに被われているため不可能で、マインドが作り出した人格・エゴは私ではないとの認識レベルに到達したとき、スピリットとしての意識も復活し現在意識と繋がる。
  
またスピリットに附属する真性サイキック体、真性ノエティック体などの発達の度合いに応じてスピリットは光を放つとも言われている。スピリットは形、色、香、音楽を放っている。
  
スピリットが真我に一体になるとき、それは自分の最終の死でもある、最終の第2の磔でもある


※真我

  
神我、全ての人とワンネスで万物と一つであるが思考や概念の接近を許さない
  
見るものは見られるものであるなかに、非二元性の中に顕現する私達の本質であるがハートの聖なる空間から、そこに至る道が開けている
  
(サイキック体のハートのチャクラと、真我の宿るハートの空間は近い場所に感じられるが、別である)
  
真我はリアリティーであり、時間と空間を超越している、どこにもあり、いつもあるそれは現象界を成立させている根源である
  
悟りとは真我と一つになることであり、そこへ現在の意識が移行した場合は、スピリット・魂もなく輪廻転生もない真実のリアリティーの世界か開顕する 。
  
愛と喜びと英知などは真我の特性である



















【2006/04/26 17:53】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今朝の祈り
「この功徳を以てあまねく一切に及ぼし
我らと衆生皆共に
仏道を成ぜんことを」

地球から苦しみを無くしたい
心からののぞみを叶えてあげたい
病苦、お金の苦労、不安、苦しみから解放してあげたい
真我がそれぞれの人に輝いてもらいたい
即ち、地球の全ての人に悟ってもらいたい
悟りを与えたい

今朝の祈りでした
【2006/04/23 07:17】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
宇宙の真相・現象界の仕組み・次元の構成
現在チャネリングの情報が洪水のように巷に溢れ、宇宙の真相・現象界の仕組み・次元の構成についてのくわしい真実が私達にもたらされています
特にチャネリング等を中心に他の時間系や空間系からや、アカシックレコードからの
情報は驚くべきものがあり、かなり真実の力もあり、そして最終的には私達を解放へと導くかのような実際的な方法まで提示されています

しかし
そうでしょうか、

私達は真我に至らなくても「次元を超えた現象界の仕組み」が情報や知識という方法で私達にもたらされるのでしょうか
コンタクトやチャネルという方法でもたらされるのでしょうか

この知識や情報という方法で自分や宇宙に関して理解できるのでしょうか
そして
自分というこの「葛藤そのもの」から解放されるのでしょうか
そうではなく
自分が愛と喜びに満たされ自己変革することこそ最初になされなければならないのではないでしょうか

自分のこの低いステージにいたままで全体を見渡せるのでしょうか
真我という全体性に到達してこそ、本当のことは、知識としてではなく、「愛」から「全体性からの必要」から、英知として理解され与えられるのではないでしょうか
したがって
これらのチャネラーからの宇宙の真相・現象界の仕組み・次元の構成などの情報を与えられるという方法は
道に迷う落とし穴のような気がします

これらの情報や宇宙的知識を知ることは自己変革の緊急性が存在しません、逆におろそかになってしまいます

今、一番大切なことは、
今、一番の緊急なことは

この私が今いる現象界で、自分や他人のためにこそ、自分が幸せになることです
自分の中に愛が溢れることです、そうすれば周りに与えられるのです

エゴにとらわれたままで宇宙の知識を得て自己満足し周りの人々に害毒を流していることすら気がつかないのです
今、最初にまず一番に、私達が行わなくてはならないのは
自己変革です

自己からの解放なのです


自己変革は「私は誰か」です
私は、今までラマナ・マハラジの事をよく分かっていなかったので
私は「私は誰か」を自己想起だと思っていました、
しかしラマナ・マハラジはハッキリと述べています
一番最初に起きる想念「私」を突き止めなさいと、これが「私は誰か」ですと
この私こそ真我を包み隠している本体です、輝きを妨害しているものです、マインドのなかみです


この方法とやり方は取りも直さず、クリシュナムルティーやニサルガダッタ・マハラジなどと全く同じ方法なのです
即ち、「思考の隙間」の発見です

自分の中に思考の隙間を発見することが「最初に沸き起こる・私という想念の発見」であるのです

この発見が正しい「宇宙の真相・現象界の仕組み・次元の構成」の理解に繋がるのです、そして具体的に宇宙の知性の皆さんや高次の存在の方々やエルダーブラザーと繋がる道なのです、そして最終は見るものと見られるもの見ることの、この分離が消滅すると言われています

これ以外の知識による伝達は、私達をジャングルへと彷徨わせるだけです
この巷に氾濫している直接的な「宇宙の真相・現象界の仕組み・次元の構成知識の」情報伝達は正しい方法ではありません、

実はこの方法を選んでいること自体が自分がエゴやマインドに突き動かされ、自分が知識欲というものに取り憑かれた結果なのです

ハートに宿る真我に至ったとき、自ずから全ての時間と空間と次元に自由になり、
あらゆるこの現象界の秘密は自ら開示され認識され
宇宙構成を超え現象界を超えて、他の宇宙構成まで理解は深まり

そのエルダーブラザー方達と一緒に働けるれレベルまでに行けることでしょう
宇宙の高貴なるエルダーブラザー達や高次の散在の方々とともに、
現象界を超えこの宇宙以外の宇宙にも自由に行けることでしょう


【2006/04/19 06:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
神について・ラマナ・マハラジ
ナチュラルスピリット社はこのところ素晴らしい本を出しています
ラマナ・マハラジのあるがままに神の本質が掲載していましたので抜粋します

質問者:神と真我は別のものでしょうか

マハルシ:真我は神である。「私は在る」(I AM)が神である。もし神が真我から分離しているとしたら、その神は真我のない神であり、それはあり得ない。

現在のあなたは自分を個人だと考え、そして宇宙が存在し、宇宙の彼方に神がいると考えている。そのため、そこには分離という観念がある。この観念が去らねばならない。なぜなら、神はあなたからも宇宙からも分離していないからである。

「私は在る」(I AM)が神の名前である
絶対的存在とはただ在るものである。それが真我である。それが神である。真我を知れば神を知る。実際神は真我以外の何ものでもない。


真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉が響き渡る。それが神の名前「私-私」である。「私」という感覚に注意をはらい、「私-私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛び込み、自我を破壊し去るだろう。

宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに限った真実である。賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である。個我を超えた真我には、他のどんな存在もありえない。

イーシュワラ、神、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。唯一、絶対的存在のみが実在である。それゆえ、世界だけではなく、自我だけではなく、人格神もまた非実在なのである。


もし個人が姿をもっているなら、主である真我、源でさえ一つの姿を以て現れるだろう。このように神は無数の名前を受け入れるが、真の無形の意識だけが本当の神である。

神の住処についてだが、彼はハート以外のどこにも住むことはない。自我によって生まれた「私は身体だ」という観念のために、神の王国はどこか他にあると思われている。ハートこそが神の王国だと知りなさい。

真我に気づいている人は宇宙の崩壊をも超越して解脱を得る。ならば、なぜはるかに賢く能力をもったイーシュワラにそうできないことがあろうか

シヴァやガナパティやブラフマンのような神々は、人間の視点から見れば存在している。つまり、あなたが個人的な自己を実在だと考えるなら、神々も存在する。ちょうど政府の行政運営の為に高官がいるように、創造者がいるのである。だが、真我の見地からすれば、これらの神々はすべて幻想であり、神々自身が実在の中に溶け去らねばならないのである。

ハートの中に他の想念が存在する間は、神についての想念も存在できる。全ての想念の破壊によって、神の想念さえも破壊された状態が、無念無想の想念であり、それこそが神の真の想念である。
【2006/04/16 08:07】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
スワミ・スリ・ユクテスワは知っていますか
先日、西武池袋の本屋さんへ言ったところ、メルキゼデクの本が目にとまり、その本を手にしたとたん、本棚からそのメルキゼデクの本がいきなり10冊近くバラバラと私の方に落ちてきました。
そのとき、これは読めと言うことだと分かりました
そして、そのメルキゼデクを指導しているのが、このスワミ・スリ・ユクテスワさんなのです。
【2006/04/10 22:47】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
スピリットは転生に際してどのようにして真我とつながるか
真我とスピリットの関係を考察したい

①スピリットはサイキック体のハートのチャクラから真我に繋がるとしたら、転生に際して、サイキック体の7つのチャクラはどうなるか、、その同じ発展具合のサイキック体とチャクラをどうやって次の転生に引き継ぐのか

②自分のステート・レベルでは意識の座は今、非常に狭く、マインドに被われて五感と記憶からの作用で、この頭脳内に条件付けられて閉じこめられています。
超感覚もなく、テレパシーとテレポテーションを可能にする大文字のマインドと繋がることもなく、勿論に真我と繋がることもなく、従って静寂もなく、平安もなく、愛もなく、喜びもないステートです。
この私のステートはスピリットのステートでしょうか、それともスピリットは完全でステートを自覚する実存の中核はスピリットではないのでしょうか、いずれにしても真我はそのままでしょうが
旅は起きなかったし、そもそもこの旅はなかったのでしょうか
【2006/04/08 08:56】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
死後の世界ではなく、生まれる前のこと
私の頭を悩ませていることの一つに
死後ではなく、生まれる前のことがどうなっているのかがある

私は
自分のこれはあくまで私見ではあるが

①受胎したとき
 Ⅰ肉体としての意識と記憶は発生する
  心臓の中核に生命いのちが宿る
 Ⅱ特定のスピリットからの預託としてどのスピリットが入るかが決定  される
 Ⅲその特定のスピリットに関わる、多くのワサナ、カルマが引き寄せ  られ、肉体の形成に関わる。遺伝的条件に則り特質が決定する
 Ⅳエネルギー体の形成が始まる
 Ⅴその特定のスピリットの運命の設計図が肉体に入る

②誕生時
 Ⅰ初めての呼吸で、入るべきスピリットの前世からの引き継いだ形成  途中のサイキック体、ノエテイック体がハートのチャクラと繋がり  この肉体に入る
  しかし、このスピリットが完全に肉体に入り、頭蓋内の松果体に完  全に、落ち着くのは7才までかかる

※スピリット
  真我のスパークであり、コーザル体等とも呼ばれている
  良く近頃、写真で撮られている玉響かと思われる
  本人の真我の現象界の表れであり、マインドに被われ包まれている  が、最終的には、現象界の経験を積んで真我に戻る運命である
  その本人のステージでサイキック体、ノエティック体の発達の度合  いに応じて光を放つとも言われている
  スピリットが真我に一体になるとき、それは自分の死でもある
※真我
  神我、全ての人とワンネスで万物と一つであるが思考や概念の接近  を許さない
  私達の本質であるがハートのチャクラの聖なる空間から、そこに至  る道が開けている
真我はリアリティーであり、時間と空間を超越している、どこにも  あり、いつもある
  それは現象界を成立させている根源である

【2006/04/01 23:04】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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