気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
脳は地球マインドの一部
私達の意識(無意識を含む)とは「地球マインド」そのものであり
このマインドを構成している一細胞であると思われる
(一細胞に全体があり、全体は無限の一細胞によって構成されている)
(マインドとは現象界をあらしめているものであり、自然界も含めた現
象界という神の一部である)


マインドとは
意識面で言えば、無意識(熟睡)、潜在意識(夢見)、現在意識(覚醒)
という
それぞれのステイトで構成されている


各体の脳はその地球マインドのもの、であり、マインドが使用しており
脳とは肉体脳だけではなく、諸体もその脳の一部であり
諸体もその地球マインドの一部として機能している
そして時間の中にあって、自分が行為し、自分が考えていると知覚
している
・・と私は思っている

このそう思っている私も、思考し、考え、思索し、思っている以上は
この地球マインドの一部であり
決して思考なく見ている「見」ではない

アカシックレコードは
マインドの根幹部分であり
過去現在そして未来という時間で構成されている







このマインドとは
過去現在未来という時間から成り立っている地球規模の意識場の
ことでもあり
この地球マインドとは「宇宙意識」「地球の想念帯」「アカシックレコー
ド」「マインド」など
異なる呼称で呼ばれているが
私達の意識の事であり
この熟睡、夢見、覚醒でもって構成されている

この地球マインドとは
「なること」「至ること」「在ろうとすること」などの時間から形成され
ているので
常に未来を指向し、良くなろうとしている




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【2017/03/10 08:23】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自我を見ているのは自我であり、真我は自我の中に真我を見ている
自我を見ているものは自我であり
自我の中に真我・神を見ているのは真我であろう

自分を他人とは異なる自己であると知覚しているものは自我であり
自分を他人と分離しておらず「私は世界である」と知覚しているのは真我であることだろう

自分を自我であり真我ではないと認識しているのは自我であり
自分を「それ」であると認識しているのは真我であることだろう


内部と外部を分離していると見ているものはマインドであり
そのマインドは対象を分離していると見て
自己とは他己であるのに、全てと分離しているとみている

自己と他己の分離感は
条件づけられている脳の働きと一体化したゆえであり
自己と他己を別々の分離している実体だと信じている。


分離しているマインドに於いては自我は他己として認識される



自己を真我と見ているものは真我であり自我の中に
真我をみて

他者の中にも同じ真我を見ているのであろう

虚偽の中に真理を見ているのが真我なのであろう
【2017/03/09 06:49】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
熟睡
熟睡はマインドにとっては無と映っている
熟睡をマインドは見ることが出来ない・・マインドではないからである
私達である、現在の知覚と意識とは鏡を被っているマインドであり
マインドである知覚や意識にとって熟睡とは無でしかない。

熟睡はマインドにとっては知覚や認識が出来ない
熟睡というものはマインドの知覚や認識には及ぶ事が出来ないからだ
けれども熟睡が無ければマインドも無く自我もなく、知覚や
認識もなく、世界も無い。

熟睡という未知なるものは既知なるものをあらしめている
のではあるけれども

既知なる私や思考や心にとっては未知なるものであり無と映っている

熟睡、それは気づきと呼ばれている
気づきは思考にとっては無であるが
思考がないときそこに気づき(熟睡の観照がある)
気づきは思考を観照している
熟睡は気づきであり
マインドには未知だが
気づきを被っていたマインドが去ると本来の気づきが鏡に顕れる


鏡とは個別的霊魂(統覚機能)のことであり
個別的霊魂(統覚機能)は鏡であるが、
その鏡は現在の所、マインドによって被われている
従って鏡は自身の姿=気づきに気づかない

気づきに気づくのは気づきではなくて、気づきの
一部である現象界の接点である個別的霊魂である

気づきは気づきに気づかないからである

マインドはこの個別的霊魂から放射されており
この個別的霊魂を被っているマインドは個別的霊魂の内奥から
放射されている
といわれる

従って個別的霊魂からマインドが離れるのも
熟睡が起こしており
気づきがマインドを投射し、マインドを晴らすのではないか





【2017/02/20 10:08】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
見ることが解放をもたらす
思考や感情やお喋りや想念や自我を非難や同一化なく見なさいと
起こっている出来事や起こっている騒動に巻き込まれうろたえている自我を見なさいと



その思考や感情やお喋りと想念と自我などを見ているのは観察者と言われている
その出来事に巻き込まれている私、悲しんだりイライラしたり、悩んでいたりする私を
観察している私を観察者という


では
その自我を見ている私である観察者を思考なくただ見よと


見ている者を見よと


そしてそのただただ見ているとき

その自我を観察している観察者とは
その自我に他ならないことを
知るでしょうと

この「観察者は観察されているものである」と覚知しているのが
観照であり
瞑想であると


この実際の覺知があるとき
思考者はいない思考が有るだけだ
行為者はいない行為があるだけだ

との識別がある

と教えられている


【2016/09/26 06:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(3)
出来事は為されている
出来事は為される、為されている

出来事は起こる、成就される、成就されている

出来事は自己・自我・私を通じて、即ち行為とを通じて、必ず為される


個人・自己・自我・自己意識・現在のパーソナリティーを使って

行為され、意志しているのは私達である個人や自我ではなく根源である


源泉・根源・全体性・意識(思考ではない)・生命は

私という自我とその肉体や身体を使って行為され

観念や衝動、決意、意志、感情や思考を起こし、

それを自分が為していると錯覚している自己自我を使って

出来事を完遂されている


生きているのは神であり、行為されているのは神なのである


源泉は自我・私・自由意志・行為・思考・欲望・身体・衝動を使って

出来事を起こし、良いことと、悪いことを成就し成し遂げられている

・・とその様に思われる



出来事は根源が自己・現在のパーソナリティーと行為と思考と自我を使って成し遂げられている


・・・これが現実なのではないか




【2016/09/04 07:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
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プロフィール

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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