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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
主体は客体ではない
今朝、頭をかすめた思考・・

シャンカラが言うように主体とは純粋に見ている主体であり客体とは成らない
ということだろう
主体は客体ではない
客体を持っている主体とは真の主体ではない・・それは私という観念であるのではないか
何故なら
肉体においても目は目を見ることが出来ないものであるように

目によって見られている私とは主体ではなく真の私ではない
同様に
この目によって見られている客体や対象とは「見ている主体」であって
それは真の見ている主体ではない・・と言うことであろう
ということは
対象を見ている私は、実は本当の私ではなくて、主体である目を覆っている
対象を持っている私・・即ちそれは私という観念であるということなのではないか

見る者は見られるものであり
見られているものは見る者である
・・ということだろう


主体とは見られることなく見ているのであり
主体とは決して対象にはならないと言うことであるからである

目は目を見ることがないのであり
目が見ている対象(葛藤・恐怖・私・分離)とは目を覆っている
マインドであり、目を覆っている眼鏡であり、目を覆っている私である

その目を覆っている眼鏡とは目が見ている対象であり
即ちそれは心であり、私であり、思考であり、私という観念である
その目を覆っている私とは分離であり、無明であり、葛藤であり
「私は肉体である」という観念であり苦しみである。
それが意識の座を覆い包み隠している私・私という観念
即ち肉体と肉体の行為と私であるところの無意識的自己
肉体の自律神経に影響をあたえ、コントロールしている現在意識に
表面化しない集合無意識の私、潜在意識に潜む私・自我なのではないか
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【2019/09/14 06:50】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
二元性以下の場合
非二元性。不二一元の教えの前に
私はその二元性にすら達していないのが現状である

二元性とは「私とあなた」「我と汝」であるが
現在の私には「あなた」や「汝」がいまだ存在しておらず

本能的、且つ完全なるエゴイズム状態、ないしは潜在意識的
意識状態であることが判明している


久保栄治という現在の私にとって必要なのは
不二一元の前段階の二元性の確立である

「あなた」や「汝」がなければ二元性は存在せず
従って
愛することである
非二元性も存在することが出来ないからである


「汝の敵を愛せよ」とはキリストの言葉であるが
私にはその愛すべき「相手」「あなた」すら存在
していない本能的潜在意識的意識状態である

「友のため命を捨てるこれより大いなる愛はない」
というキリストの言葉は
この二元性が何故存在しているのかの理由を示している


「神は愛なり」であり
この愛の実現のために
まず始めに
二元性というマインドが必要なのではないのだろうか

愛することが出来るのは愛なのである・・という教えは
不二一元の観点からの言葉である
しかし
同じ不二一元から
マインドでありエゴでありこの未熟な愛のない私達に対して
愛することの出来ないと言われている私達に対して
「汝の敵を愛せよ」
「友のために命を捨てよ」
と発せられている

その様に思考し、思い行いなさい
と思考と行為することを命じられている

【2019/08/18 06:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
全託・観照
思考は起こっている
行為は起こっている
私は起こっている


それ故に
そのその私や思考や行為を見ている私は
思考や行為や私なのである

思考や行為や私に
巻き込まれることなく
全託し観照しようとしている私こそ
その思考であり行為で私なのではないか


その思考と私と行為というマインドに覆い包まれているが
永遠のパーソナリティーと繋がっている
現在のパーソナリティーとしての正しい行いであろう
何故なら私達は思考や行為や私に覆い包まれていても
思考や私や行為ではない永遠のパーソナリティーと繋がっている

思考や行為や私ではないものである

・・と言われている高次の私は
行為している者
生命である者
思考を起こしているもの
であり

未知なる意識なのではないか
【2019/07/05 22:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
神が私として生きておられる
神が私としてまたあなたとして生きておられる

肉体は私のものではない
神が肉体を生かしておられる

思考や個性や心は私が創ったのではなく
神が思考や行為や個性や心を生み出し

神が私やあなたとして個性を持ち
思考し、感情し、考え、感じ、行為して
生きておられる


私は生かされているのではない
生きているのは神であり
神が生きておられるのである

【2019/06/27 21:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
マインドの間違い
私であり
私達であり
私という観念であり
そのマインドの思い違いとは間違いとは


それはこのマインドが自他に分離している
私は自他に分離していると思い込むことだ

マインドは自他に分離していない
自分のことを自分自身だと思っている私という観念
であるマインドは

他と分離しておらず
他人とは別れておらず一体なのに


私は他人ではなく
私は全体ではなく
私は万物と分離しており異なっていると


その様に信じ込んでいる

しかしその実感と思いは
脳や肉体と一体化している結果
その様に間違っているのであり
自我の実体はマインドであり
マインドは分離していない


人類で一体なのである

【2019/06/23 09:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
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プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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