気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
私とは生かされている
私は生かされている
若しくは


私として生きておられる
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【2018/02/04 07:28】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
行為について
私達現在のパーソナリティーは現段階の発達段階
それはこの肉体の脳と結合し肉体に入った私達のことであるが
-それは私達であるサイコノエティック体は未形成で機能していない-

においては
この肉体と結合し、肉体と脳に起こっている行為と思考や感情を
自分が起こしていると錯覚し


その反応を起こしている
-これが私達現在のパーソナリティーの現実である

しかし
この私達である現在のパーソナリティーのサイコノエティック体が再形成
されるならば
行為出来る状態へと移行するだろう


それまでは
この肉体に起こっている行為や思考に対して
私達は
私達の態度(反応)だけが自分の自由で有るものである



起こっている行為や思考に対する態度が
非常に問題なのである


あるがままをあるがままに凝視し受け入れることが
私達現在のパーソナリティーにとって
重要なのではないだろうか


【2017/12/06 14:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自分の力で成長するのではない
私個人の現状はサイコノエティック体の再形成も起こっておらず(自分の力で再形成するのではない!!
再形成とは現在のパーソナリティーであるサイコノエティック体の動きを観照している個別的霊魂の奥にある
プルショタマがそれを決断し行うのである)
従って現況では私であるサイコノエティック体のセルフエピグノーシスは未発達ですので
私の日常の通常の意識に於いては①ワサナからの意識②三脳の条件付けからの意識や脳の記憶の反応
③未発達なサイコノエティック体の意識(カルマやサムスカーラや業に引っ張られている意識)
が殆どであり
時々顔を出すのが
④私という観念「私・自我連合体」=根本自我=全人間の共通意識である恐怖や
不安や競争心、自己本位の自己関心という人類共通の普遍的マインド(アハンカーラ)です
この単体の私に於いては
思考に覆われている⑤の個別的霊魂(内奥の霊魂ではない)の意識は
殆どまったく表に出てきておりませんし各種のベール・産着・サングラスは取り払われておりません。
従って瞑想は起こっておりませんし気づきもありませんし高次のセルフエピグノーシスは起こっていません

私とは現在意識である③の未発達なサイコノエティック体の意識で生きているわけですが
この③の意識である特徴とは、
自分が生きていると実感し、自分は個人だと実感し
自分の自己、自分の自我だと思い込み
自分の肉体だと実感し、自分が思考し、自分が行為し
この自己とは神が使っているのではなくて自分の自己だと実感しているのです。

まさに現在の久保栄治のサイコノエティック体はその様な実感ですしそのレベルです

しかしながらこの実感とは錯覚であり、自己が神以外に存在していると思うことは
(この自己は私であり、自分が輪廻しており、自分が自分の人生を生きていると思うことは)
間違っているマインドのトリックであることは思考や論理では分かっておりますので
個別的霊魂を包んでいるベールや覆いが取り払われるということが起きない限りは

現在のサイコノエティック体であるセルフエピグノーシスに於いては「正しく思うこと」
正思・正念・それを行う正行が非常に大切だと思っております
【2017/11/06 21:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
思考なく見ているのは神
肉体を使い
送受信器である脳を使い
心・思考(私という虚偽)を使って
行為し
生き
歩んでいるのは神である


心とは私ではなく神が使っている意識である
「見るものは見られるものである」であるのに
自他は分離して
主体は対象ではない
とおもうマインドであり幾層もの段階のある心という意識である

その心がないとき
心なく見ているのは神である

クリシュナムルティーが思考なく見なさい
と言っているのは
神として在りなさい
神として見なさいと言っているのである

この心は単一であり
自他の分離であり
見る者は見られるものではないと思っている思考
「見るものは見られるものである」を理解しない思考であり

その思考・心という多くの次元た段階がある意識を神が使って
生きておられる

神でないものはなにもなく
全ては神の中にある





【2017/11/03 06:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私達は鏡そのものなのかも知れない
鏡は何であれ、鏡に映っているものを映しだしている
私達は空の鏡であり、空の器である
その器に入った者が、私は○○だと自己主張し、自分は
自分だと思っている
或る日には、或る記憶体が入っているだろうし、次の日には
又異なる記憶体が入ってきて、「瞑想をして空っぽになったら
危険だよ、そんなことをしたら魔が棲み着いてしまうよ!!」などと言う
けれども、じつはそう言っているご本人自身は、その空っぽの器に
入ってきた記憶体なのである。
実際には私達は誰でもなく、その空の器が私達なのであって、私達とは
いないのである。私達とは単なる空の器若しくは、何でも立ち向かっている
心を映している鏡自体なのである
私はいない
私とは鏡であり、空の器なのである
現在に地球人類の殆どはその空の器には「私という観念」が生み出した
或る人格の記憶や、エレメンタルが棲み着いている
その記憶の反応がなくなり、エレメンタルの思考が消滅したとき
その器は空になっており、その空の状態が良ければそこに思考を超えた
気づきが起こるのかも知れない
【2017/08/27 07:24】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
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プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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