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気づきを一緒に
気づきを一緒に高めていきましょう
全託・観照
思考は起こっている
行為は起こっている
私は起こっている


それ故に
そのその私や思考や行為を見ている私は
思考や行為や私に巻き込まれることなく
思考や行為や私なく
全託し観照することが必須である


その思考と私と行為というマインドに覆い包まれているが
永遠のパーソナリティーと繋がっている
現在のパーソナリティーとしての正しい行いであろう
何故なら私達は思考や行為や私に覆い包まれていても
思考や私や行為ではない永遠のパーソナリティーと繋がっている

思考や行為や私ではないものである
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【2019/07/05 22:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
神が私として生きておられる
神が私としてまたあなたとして生きておられる

肉体は私のものではない
神が肉体を生かしておられる

思考や個性や心は私が創ったのではなく
神が思考や行為や個性や心を生み出し

神が私やあなたとして個性を持ち
思考し、感情し、考え、感じ、行為して
生きておられる


私は生かされているのではない
生きているのは神であり
神が生きておられるのである

【2019/06/27 21:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
マインドの間違い
私であり
私達であり
私という観念であり
そのマインドの思い違いとは間違いとは


それはこのマインドが自他に分離している
私は自他に分離していると思い込むことだ

マインドは自他に分離していない
自分のことを自分自身だと思っている私という観念
であるマインドは

他と分離しておらず
他人とは別れておらず一体なのに


私は他人ではなく
私は全体ではなく
私は万物と分離しており異なっていると


その様に信じ込んでいる

しかしその実感と思いは
脳や肉体と一体化している結果
その様に間違っているのであり
自我の実体はマインドであり
マインドは分離していない


人類で一体なのである

【2019/06/23 09:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私という観念
私が思っている「私は私ではない」というのは観念であり
その観念は現実・実際の私が起こしている観念にすぎない

私が考えている「私は行為していない」というのは観念で有り
その観念は実際の私が起こしている観念・考えにすぎない


私の思う「私は神の子で有り真我である」というのは観念であり
その観念は実際の現実のあるがままの自我・実際の私が起こしている
単なる観念であり記憶の反応に過ぎない

それを思っているのは普通の人と同じの私、自我の私である
では実際の私とは何だろうか?

実際の私とは平たく言えば罪悪人、大悪人である
私が抱いている観念やその観念の記憶の反応は
「私は行為していない」「私は私ではない」と言っているが
それはそのそれを思っているご本人は大悪人であることにきずいて
いないだけである

この実際の私である「罪悪深重の凡夫」とは
それはその実際の私が見ている知覚している対象で有り
同時に知覚している主体であり
その内部と外部の対象が自分自身なのである

その見られている内部と外部の対象が実際の現実の私なのである
それは
私の目の前のあなたであり、私の心の中に生起する私自身であろう


しかしその恐怖を見ている私とは、恐怖と別にあるのではなく
恐怖が恐怖を見ているのではないか
恐怖を見ているものは恐怖なのではないか


私が支配欲と独占欲とイライラや不安を見ているのではなくて
その支配欲や独占欲そのものが私なのではないのか?
その独占欲、支配欲そのものが国のため喜んで死ぬというのである
その競争心と自己関心そのものが神のために死ぬというのである

ではその支配欲と独占欲と利己心の私が神のため人々のため
国のためにする自己犠牲とは、肉体を犠牲にし、自分自身をも
犠牲にして何かを獲得しようとしている利己心の行為なのである

その自己犠牲とは
自分の死を通じて、自己が賞賛されることを願い、自己が輝くことを
狙っている巧妙な自我の利己的行為なのではないか

自己自我が完全に消滅していない限り、自己自我は巧妙に
生き残り、そして競争に打ち克ち、獲得し、神にまで登り詰
めようとしている

克己し、自己を滅却し、自己を犠牲し、自己を神や人々に捧げて
善行を積み重ね、神に全託し、修行を積み、瞑想をして
自己を無にすることで、
自我は自己を変革することで自己実現を目指しているが
しかし、それは自己の拡大であり自我の行為であり
、自我の拡張であり、自己が神に、まで登り詰めようとする
最もありふれた、自己欺瞞に過ぎない
それはごく一般的な自我の当然の姿なのである

それ故にその自己犠牲の行為とは敵国の人々に悲しみをもたらし
その宗教心は異なる宗教の人に悲惨と悲劇と死をもたらすのである

しかしこれは自我の巧妙な自己欺瞞であり、目的と
動機を持った自我の行う自己正当化、自己拡大化に過ぎない
その自我は常に自己を意識しており、自己が全体性であることを
決して理解しない
この全自我が行う全託と自己犠牲と奉仕や善行は意識されていない
自我の動機や目的から意図的に遂行されている
というのは必ず自我の行為は自分が行為しているという「私」自己関心が
付きまとっているからである


これに反して自我ではない「私」が行う全託や自己犠牲や奉仕や
善行はその自己犠牲や奉仕が決して意識されていない
何故なら本当の全託や自己犠牲や奉仕にはそれを行っている
私がいないからである

その自己犠牲や奉仕や全託を行う私がいる限り、それは決して
自己犠牲や奉仕や全託ではないことを強く知るべきである

私が自己犠牲をしていることを意識している限り
私が謙虚で愛深いことを意識している限り

そこにそれを意識している自我がいて
それらは自我の行為なのである

自己が意識される限りはそこには恐怖がある

私とは私が見ている私の中にある恐怖で有り、嫉妬心で有り
競争心で有り、支配欲であり、独占欲で有り、利己心という
愛のない状態である

と私、支配欲は思うのだが

その思っている私とは、実は私即ち欲望で有り
私がいるのではなくて欲望しかないのである

欲望が嫉妬心が競争心が私の正体なのではないか


それが私自己の実際の姿で有り
この実際の姿である私とは、その私によって見られている
恐怖なのではないのか
私によって観察されているイライラは
そのイライラが私なのではないか

私によって見られている愛のない状態とは
その愛のない状態が即ちこの私自身なのである

私とは私によって観察されている対象なのではないか
と・・・
【2019/06/13 07:22】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
行為者の感覚
自分が行為していると思っているのは誰だろうか?
行為とは非常に超高度のネットワークによって行わ
れているのであり
行為とは「私が行為していると実感している私」
人格の私によっては為されてはいないことだろう。

行為の結果は誰が負うのだろうか?
それは自分が行為していると実感している
「人格の私」「現在の私」に着せられることであろうが
その人格の私とは誰だろうか?
真に行為している純粋精神によって生じている
自分が行為していると実感している私であり
その私とは行為によって生じた行為者という
私なのではないか?

行為とは私が行為しているという認識があり、行為には
行為する主体を既に含んでいる
私という人格、私という現在の私、私という観念が
あときにのみ行為ということを知覚し認識できるのであり
従ってもし、私という人格、現在の私がないときには
私が無く、私という行為者もなく行為もないことだろう
何故なら行為している主体がないので行為もありえず
行為の知覚もないからである


分離している私がいないとき、そこには行為は無いことだろう


私は行為している、私は行為の主体であると実感し、経験している
と実感しているのは私という観念・人格・エレメンタルであるので
私という観念が消失して、私が脱落したとき、即ち思考がないとき
そこには行為もなく従ってカルマもないことだろう


叡智があるとき、即ち思考がないとき、私は脱落しており、そこには
自己を前提としている「私は肉体である」という行為のために必要な
自己がなく、自己は肉体であると言う肉体意識がないことだろう
そしてそこには肉体の意識がないとき行為はなく「行為は起こっている」
という実感があることだろう
そしてそこには私が行為しているという実感はないことだろう
そこには肉体も起こっていると同じく行為も同じく起こっているという
認識が在ることだろう



生の全体性を知っている者は思考ではなくて全体性の意識であり
その全体性の意識とは「私は肉体である」と言う自我意識ではなく
その「私は肉体ではない」という意識においては私が肉体ではないので
行為は私が為しているのではなくて、行為は起こっているという
実感がそこにはあるのであろう



【2019/06/12 21:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
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プロフィール

久保栄治

Author:久保栄治
皆様ようこそ

私とは誰でしょうか?

「汝自身を知れ」とは古来からの哲学者や賢人によって、言われ続けてきました。

人生で成功したにせよ、若し「自分を知る事」がなければ,それは一番大切なものを失ったにも等しいです。
とかく毎日の日常生活や家庭生活、会社での仕事のなかで自分を忘れてしまいます

では「汝自身を知れ」といわれている私とは一体誰でしょうか?若しくはなんでしょうか?
私は私の事を一番知っているのに、いまさら何で?・・・
と不思議に思われるでしょうけれども、自分を知る事とは人生の中でなかなかないことです

私達は生きていても、実際は自分を知る事は殆ど無いのです

ですから、いにしえの昔から哲人は「汝自身を知れ」と言い続けてきたのです

宜しかったらご一緒に自分探しのたびに出かけましょう

※私は如何なる宗教や団体や政治グループにも属していないので、ここでの書込は、教えや考えを押しつけたりしないで下さい

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